アクセシビリティでの成功事例を作りたい! 自ら手を挙げて切り拓いてきたキャリア観

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森田雄&林真理子「Web系キャリア探訪」

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アクセシビリティでの成功事例を作りたい! 自ら手を挙げて切り拓いてきたキャリア観

アクセシビリティでの成功事例を作りたい! 自ら手を挙げて切り拓いてきたキャリア観

Web黎明期からサイト制作に携わり、現在はfreee株式会社 UX部 デザイン基盤チームでUXリサーチャー・デザイナーとして働く伊原力也氏にお話をうかがった。なお、聞き手の森田雄氏は、伊原氏が2社目に勤務したビジネス・アーキテクツの設立メンバーでもあることから、旧知の間柄である。林真理子氏とも、ビジネス・アーキテクツ時代から面識がある。

伊原氏は、取材を受けるにあたってこれまでの経歴を整理した資料を用意してくれたので、参照しながら記事を御覧いただきたい。

Webが一般に普及してすでに20年以上が経つが、未だにWeb業界のキャリアモデル、組織的な人材育成方式は確立していない。組織の枠を越えてロールモデルを発見し、人材育成の方式を学べたら、という思いから本連載の企画がスタートした。連載では、Web業界で働くさまざまな人にスポットをあて、そのキャリアや組織の人材育成について話を聞いていく。

伊原氏のキャリア年表
伊原氏のキャリア年表
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Web黎明期に独学でサイト制作を学び、高校生から仕事にする

林: 伊原さんが最初にWebに触れたのはいつ頃でしょうか?

伊原: Webの前にパソコン通信をやっていました。中学2年の時に家族が買ってきたPCのWindows95で、パソコン通信を始めました。NIFTY-Serve(ニフティサーブ)のジュニアフォーラムで同い年くらいの人と話したり、ゲームのフォーラムでゲームファンと話したりするのが楽しかったです。ゲームセンターで開かれたオフ会に参加して、年上の人と遊んだりということもありました。

この頃、勉強はあまりしていなくて、学校も休みがちだったので、学校以外のもう一つの居場所がインターネット上にあったのは良かったなと思います。その後、Webでゲーム系のサイトや日記系サイトを見るようになり、自分でも作りたくなって、手書きのHTMLで作成したページを公開するようになりました。1998年の高校生の頃ですね。

林: HTMLは本などで学んだのですか?

伊原: 最初は公開されているサイトのソースを見て覚えました。普通に組んだらできないレイアウトをテーブルで組んでいたり、位置調整するためにスペーサーgifという空白のgifファイルを置いたりというような、作り方のコツを真似していました。自分が思ったレイアウトをHTMLで表現できるのがおもしろかったですね。

林: パソコンは家族と共用で?

伊原: 最初は家族で使っていましたが、だんだん自分しか使わなくなって、自分の部屋に移動して自分専用になりましたね。

その頃から、「HTML鳩丸倶楽部」、「娘娘飯店しるきぃうぇぶ」などを見て、「自分のHTMLやCSSの書き方は間違っている、正しい書き方があるんだ」ということを知り、勉強するようになりました。森田さんをこの界隈の掲示板でみかけたのもこの時代です。

森田: 鳩丸倶楽部も娘娘飯店しるきぃうぇぶも、本当に懐かしいですね(笑)。

伊原: 高校3年になって、パソコン通信の友だちから「Webサイト制作のバイトをしないか」と誘われて、お金をもらってWebサイト制作をするようになりました。当時は閲覧環境を考慮した実装制約などもなく、CSSだけでレイアウトを組むようなサイトを作ることもありました。作成したCSSを2ちゃんねる(当時)のスタイルシートスレッドに投稿することもあり、そこで現在GMOペパボのCDO(Chief Design Officer)の@kotarok こと、小久保 浩大郎さんと知り合いました。小久保さんがビジネス・アーキテクツ(以下bA)の面接を受けるということで、なぜか僕も一緒に行くことになりました。

森田: 伊原さんのポートフォリオを見せてもらって、当時勤めていたbA内で「実装がすごいね」と話題になりましたが、そのときは入社しなかったんですよね。

伊原: 当時大学1年ということもあり、まだ就職するつもりはなかったからです。結局、高校からアルバイトしていた会社(ザッパラス)に大学を中退して就職しましたが。

freee株式会社 デザインリサーチチーム UXデザイナー 伊原力也氏
freee株式会社 デザインリサーチチーム UXデザイナー 伊原力也氏

iモード全盛期、会社のメンバーでスピンアウトして起業するも……

森田: 大学を辞めたのはいつ頃ですか?

伊原: 2年生ですね。一浪していたので21歳の時に就職しました。高校時代は全然勉強していなくて、国語、社会だけで入れる文系大学に入りました。今思えば、デザインや情報工学などの大学に行けばよかったと思います。仕事のほうがおもしろくなったので、大学は辞めてしまいました。

林: ザッパラスではどんな仕事をしていたのですか?

伊原: 当時は、Webサイト制作を始め、なんでも屋みたいな感じでしたが、iモードの時代になって、占いサイトや待ち受け画面のサイト制作が事業の中心になっていきました。iモードの公式コンテンツのディレクター、サイト制作などなんでもやりました。

森田: 今思うと2000年以前は、Web制作会社と言っても実装面でいえば、ただ作っていたという感じでしたからね。この連載の花王の板橋さんの回で、当時本間さんが自分で花王の公式サイトを作っていたというお話がありましたが、当時は企業の担当者が自分でサイトを作っていたこともありました。2000年以降は、実装技術の専門性が高まっていったため、企業側は実装ではなくWebマーケティングのほうに集中していったという流れがあると思います。

伊原: 詳しい人は自分で作って、わからない人たちは制作会社に任せていたという感じですね。いまほどサイトの要件が詳細に決まっているわけではないので、制作側は自分たちで良いと思うものを作っていました。

林: ザッパラスを退職されて、2004年にbAに転職されたということですが、どういう経緯があったのですか?

伊原: 当時iモードの公式サイトなら月額300円、会員が1万人いればそれだけで月額300万円の売上になるので、利益がでやすかったんです。会社の何人かと一緒に自分たちがやりたいものを作ろうということで、退職して新しい会社を作りました。

しかし、自分たちが作りたいものと同じテーマのサイトを体力がある別の会社が始めてしまいました。僕たちは無給で働いていましたが、ジリ貧です。Webサイト制作は続けたいと思ったので、小久保さんに連絡してbAの採用面接を組んでもらいました。

bAで仕事を開始。マークアップエンジニアとして案件に携わる

林真理子氏(聞き手)
林真理子氏(聞き手)

林: 転職先としては、bA一択だったのですか?

伊原: はい。当時はフルCSSでサイトを作るような僕のスキルを買ってくれる会社が他になかったので。掲示板などでお世話になった方も所属しているし、会社に貢献できそうということで、転職を決めました。

面接では、IA(Information Architecture、情報アーキテクチャ)をやりたいというお話をしましたが、森田さんに「IAだけをやる仕事はないので、マークアップエンジニアとして働いてほしい」と言われました。

森田: これは「IAだけの専任者はいない」という意味ですね。IAは職種ではなくスキルなので、マークアップエンジニアがやってもいいし、やりたい人がやるべきだというスタンスでした。

伊原: 実際働いてみるとそのとおりで、大規模サイトのマークアップエンジニアをやりながら、設計、実装、運用ガイドラインの整備なども担当し、こういうものはすべてIAに関係することだとわかりました。

森田: IAという肩書から始めてしまうとその後のキャリアが成就しにくいのではないかと思います。生きた設計にならないというか、誰が手を動かすのか、形にするのかということがイメージできないと、良いIAにはならないと思うんですよね。

林: bAでは最初から案件を任されるような感じで仕事を始めたのですか?

伊原: 入社直後は、アシスタントのような立ち位置で案件に携わるようになりました。そこからだんだんマークアップエンジニア専任でプロジェクトにアサインされてという形でしたが、仕事を教えてもらうことはあまりなく、おもに人の仕事を見ながら学んでいましたね。

林: bAでは大規模な案件を扱うことが多かったでしょうし、仕事上のチャレンジから学んでいったのですね。

伊原: そうですね。bAの仕事の経験と比べると、それ以前にやっていたサイト制作の仕事は遊びの延長だったかなとも感じました。bAではサイト設計、プロジェクトマネジメント、クオリティ管理、ガイドライン整備などに加え、納品後も形骸化しないようにクライアント側にチームを作るとか、組織体制にまで踏み込んでいました。

森田: 2004年頃は手広くコミットするにしても、そのやり方自体は模索の連続で、仕事が無限に積み上がるような状況でもありましたね。今ではありえないですが、会社に1週間泊まり込みとかもありましたからね。

伊原: 技術的なスキル、品質の高さなどは秀でていましたが、健全な稼働ではなかったと思いますね……(笑)。

会社の思いに共感し、できる仕事の領域を広げていった

林: マークアップエンジニアは2004年からどれくらいやっていたのですか?

伊原: 2012年くらいまでですね。フロントエンドからキャリアを始めているので、サイト全体のマークアップの設計はずっと続けていました。ただ、同時にプロジェクトマネジメント、IA、CMS設計、ガイドライン整備などもやっていましたし、ディレクターの役割を担うこともありました。

森田: 「実装者」というより「設計者」になっていきましたね。

伊原: だんだん、そういうふうになりましたね。自分が実装していたものが、実装前の設計段階で「どう決まるのか」に興味があったので、実装前のプロセスにも関わるようになりました。

林: 自分の仕事領域は、上司にやりたいことを伝えて自ら広げていったのですか?

森田: 当時のbAは上司が業務範囲を指示するというよりも、やりたい人が自分で手を挙げてやる、というような組織の価値観だったので、伊原さんのスキルがハマるところにアサインされるようなことが多かったですね。

伊原: 必要性を感じてプロジェクトマネジメントにも手を出したりしたこともあります。案件に関わる人にやりたいと伝えて、正式にPMとしてアサインされて入るようになりました。

林: やりたいことをやっていった結果として、自分の仕事領域が広がっていったというのが伊原さんの基本線だと思いますが、そのとき同時に自分のキャリア形成上もそのほうがいいといったお考えはあったのでしょうか?

伊原: 当時は自分のキャリアは考えていませんでした。bAは、Webデザインを通じて社会を良くしようとしていたので、それに共感があり、自分が貢献できるならと思って領域を広げていました。

客先常駐で、クライアントと一緒に仕事をするように

林: プロジェクトマネジメントなどの新しい仕事領域はどのように身につけていったのですか?

伊原: マークアップエンジニアとして働いている時に、「うまく進む案件」と「炎上する案件」があって、プロジェクトマネージャーがどういうふうに進行しているかを見て考えました。たとえ、炎上してもうまく乗り切って、顧客満足度が高いこともあるので、「なぜなのか?」をそばで見ながら考えていました。

森田: 伊原さんは、仕事に対して悩んで向き合って、ちゃんと勉強して取り組んでいますよね。略歴を見ても都度の取り組みが現在につながっていると感じますし、実装から始まってより領域を理解するために、IA、プロジェクトマネジメント、チームマネジメントと幅が広がっていますね。

伊原: 自分の仕事で「クライアントがうまくいくようにしたい」、「助かる人が増えてほしい」と思っていると、手元のことだけではできないので、次々に広がりました。

森田: bAは主に受託制作の会社でしたが、僕が2009年に辞めた後、ブランドがBAに変わって仕事のバリエーションも増えて、伊原さんはクライアント先に常駐して仕事をするオンサイトディレクターのような仕事をしていましたよね。

伊原: クライアント先に席を用意してもらって、よりコミュニケーションしやすい形で仕事をしていましたね。

森田: 常駐して解決できない課題はBAに持ち帰って解決するような感じでしたか?

伊原: 要件を整理して情報設計して、制作段階になったらBAの制作チームにわたす流れですね。当時、某銀行のサイトリニューアル案件を担当していましたが、ステークホルダーが多い上に、持ち出せない情報も多いので、週3日はクライアント先にいました。リサーチ、設計、合意形成などUXデザインに相当するようなことをやっていました。

森田: UXデザインについては2014年に、「人間中心設計専門家」の資格を取得しているんですね。

伊原: はい、IAを行うためにはユーザーリサーチが重要ですし、制作したものの品質を担保するにはユーザビリティテストが重要ということで、体系化された知識をインプットするのに「資格が最適」と考え、取得しました。その後、資格を運営するHCD-Netから「IAに関する知識や理解の底上げ役が必要だ」という話をいただき、HCD-Netの評議員になりました。こういった経緯もあり、BAのキャリアの後半はIAとUXデザインを担当するようになりました。

林: 仕事領域を広げるときには、資格取得を通じて体系的に学ぶプロセスもご自身で組み込んでいらしたんですね。客先常駐はスムーズに入れましたか?

伊原: スムーズでした。常駐になる前にRFPの整理から入って、働きを評価してもらって、「中にいたほうが早いんじゃない?」というところから始まったこともプラスに作用したと思います。

森田: 客先常駐は、BAの仕事をとってくるための出先の営業機関のような意味合いもあったと思いますが、クライアントの中の人として一緒に働くところが良かったのでしょうね。伊原さんは人柄もよいですし、クライアント目線でも同僚だと嬉しいというところもあったんだと思いますよ。

伊原: そうですかね……まあ、 「付き合いづらい」と面と向かって言われた経験はありませんが(笑)。

林: 同じ会社にいても、働き方は徐々に変わっていったんですね。

伊原: 当時BAでは稼働時間を気にせずに長時間を掛けて解を見出す働き方をしていました。そういった働き方をしていたからかもしれませんが、自分が向いているのは、サイトリニューアルのような、複雑な問題に対してじっくり取り組むことだと思っていました。細かいものを日々判断していく業務は「苦手だな」と、自分でも認識していましたし、実際にサイトリニューアルに比べて、サイト運用の仕事はしんどかった記憶があります。自分のことを暗に「じっくり取り組むタイプだ」と規定していたのかもしれません。しかし、じっくりやることを許されない状況が訪れました。

林: じっくりやることを許されない状況とは?

伊原: 2014年に双子が生まれまして、子育ての時間を捻出しなければならない状況になりました。家にいる時間を確保するため、その場でデザイン案を作るなどの瞬発力で対応していくアプローチにトライしたら、意外とできたんです。同じ会社に長年いても、状況に応じて「自分を変えることができる」と学びました。そういった変化もあり、2017年頃に林さんの会社が主催するイベントにゲスト出演させてもらいました。

林:「同じ会社で働き続ける」がテーマのイベントでしたよね。

伊原: はい、自身の経験を踏まえて「同じ会社に勤めていても変化ができる」といったことをお話ししましたが、イベント登壇後に「アクセシビリティ領域の仕事をもっと深くやってみたい」と思い、freeeに転職しました。

アクセシビリティへの関心が高まるきっかけ。次の転職にも大きく影響

森田雄氏(聞き手)
森田雄氏(聞き手)

林: アクセシビリティに注力していくのは、何かきっかけがあったのですか?

伊原: アクセシビリティはかなり昔から気にしてはいました。2004年、bAに入ったばかりぐらいのときに、視覚障害者でエンジニアの中根雅文さんと出会ったんです。bAの社内勉強会としてスクリーンリーダーを使ってWebサイトを見るデモを見せてもらって、「自分が書くコードにはこんな重要な意味があるんだ」と衝撃を受けました。その出会いでアクセシビリティの概念が私の中に根付いて、彼らが使えるような設計をしなくてはいけないなと思うようになりました。

その後、マークアップからIAへと領域を広げていくなかで、WebのIAの延長線上にアクセシビリティがあることも理解でき、それを体現したいと考えて活動していくようになりました。2015年には『デザイニングWebアクセシビリティ』という、Webサイトの設計やデザインのなかでアクセシビリティをどう高めていくかをテーマにした書籍も共著で出版しています。

そのような経緯もあり、アクセシブルになるような設計は、クライアントから頼まれなくてもやっていましたが、同時にある種の限界も感じてはいました。クライアント側にアクセシビリティを高める意識が強くない場合、契約が終了して案件が終わると、その後を追いかけることはできなくなります。

やがて、自身のIAとしての得意領域を踏まえつつ、アクセシビリティに注力した例として社会にインパクトがある事例を残すには、テーマとして「業務アプリケーションが良いのでは」と考えるようになり、転職を視野に入れ始めました。

転職を考えていた時、「アクセシビリティを軸にするなら、そのきっかけとなった人に話を聞きに行こう」と思ったんです。なので中根さんと飲みに行って、「アクセシブルになってほしいアプリ」について聞いてみたら、会計ソフトの「freee」と即答されました。ちょうど、freeeのリファラル採用で、元bAの黒田幸彦さんから声をかけられていたので、これもなにかの縁なのだろう、ということで転職を決めました。

森田: ちなみに、黒田さんはツルカメの設立メンバーでもあるんですが、現在はfreeeにお勤めなのでした。伊原さんがfreeeに合流した後、確か、中根さんもfreeeに入社したんですよね。

伊原: はい、中根さんと再び飲んだ際にfreeeのダイバーシティ担当を連れて行ったことがきっかけで、入社する運びとなりました。

プロダクトマネージャーは向いていなかった。リサーチチームを新規立ち上げ

林: 今の職場であるfreeeに転職されたのが2017年、今から3年半ほど前になりますが、この頃は、ご自身のキャリアについてどのように考えていましたか?

伊原: それまでは自分ができることにしか目がいっていませんでしたが、自分の家族に対して役割を果たすためにも、キャリアを考えないといけないと思うようになりました。

林: freeeには、どんなポジションで入社されたのですか?

伊原: 最初はプロダクト部門のUXチームですね。お客様の業務を紐解いて、プロダクト設計することがミッションです。入社したあと半年ぐらいはデザイナーとして稼働しました。その後に人事労務freeeのプロダクトマネージャーになり1年ぐらい携わりましたが、そこではあまりバリューを出せなかったと感じています。

林: 「バリューを出せない」と感じたのはどういった部分だったのでしょうか?

伊原: プロダクトマネージャーは、「その業務ドメインに一番詳しい人であれ」というのがfreeeのスタンスにあります。たとえば「会計freee」や「申告freee」といったプロダクトでは、大企業の経理部門の経験者や、元税理士がプロダクトマネージャーとして熱意を持って取り組んでいます。人事労務freeeの前任のプロダクトマネージャーもfreeeの中で人事労務を担当していた人で、会社が急成長する中で苦労を味わい、その思いをプロダクトにぶつけていました。

そういう人を見ていく中で、自分の思いを投影できる人がプロダクトマネージャーとしては適任だなと感じたんです。自分にはそういったエピソードに裏打ちされた強力なモチベーションがない代わりに、中立的な視点で課題を特定して解決する方向に導くほうが向いていると感じました。結果、リサーチチームを新規に立ち上げ、そちらに異動してマネージャーになりました。

森田: モチベーションが持ちにくかったのは、 かつて人事労務管理意識が希薄な会社で働いていたことも関係しているのかもしれませんが……(笑)。伊原さんは課題解決が得意なタイプですよね。プロダクトマネージャーは、売上なども意識しないといけないので、そこが課題解決と相容れないこともあるように思います。

伊原: freeeでは、「マジ価値」という言葉を大事にしているのですが、これは「ユーザーにとって本質的な価値があると自信を持って言えることをする」という意味です。自分はそこの代弁者であるというスタンスで仕事をしていきたいと思いました。

林: リサーチチームの立ち上げは、自分で起案されたのですか?

伊原: そうですね。明示的にリサーチチームを作りました。freeeは、ベンチャーらしく「まずは作ってリリースする」という文化があり、顕在的課題を解決するプロダクトで成長してきましたが、「ユーザーが欲しいと思うものを作っているだけではだめ」という時期にもなっています。

ユーザーとの接点という意味では、まずユーザビリティテストが不足していたので、最初はその点の解消を実施しました。その後、ユーザーリサーチを元に、そこからインサイトを得て、ユニークな解決を思いつくための環境を作らないといけないと考えて、リサーチチームを立ち上げました。1年半かけて、「プロダクトの企画をするときはまずユーザーリサーチを元に考える」ということがかなり浸透したと感じています。

今後はピープルマネジメントにも挑戦したい

林: 自社プロダクト開発と、受託開発では、事業や顧客を理解するアプローチに違いがありますか?

伊原: あまり変わらないですね。たとえば受託案件のコンペの場合、B2Cなら商品を購入して試したり競合調査をしたりすると思いますが、そのプロセスはB2Bの自社プロダクト開発でも大きく変わらないと思います。

リサーチ対象のバラエティという点でも、受託開発と変わらないと感じています。会計freeeの場合は、個人事業主もあれば300人規模の企業も使っていますし、税務申告なら税理士が、プロジェクト管理はプロジェクトマネージャーが使います。ドメインの範囲によってターゲットが変わります。リサーチするときは、それぞれのドメインの情報をインプットして臨むしかないですね。

林: 顧客がバラエティ豊かだからこそリサーチが必要ということもありそうですね。

伊原: そうですね。どの業種でも使われるものなので、特定の業界に詳しいというよりも、多岐にわたる業界を理解する必要があります。

森田: 今後はどのような目標がありますか?

伊原: これまでピープルマネジメントは避けていましたが、会社の仕組みは、「一人では解決できないことをみんなで取り組むための仕組みだ」と実感するようになりました。アクセシビリティについても、関係者がアクセシビリティの品質定義にのっとって進めていくには、マネジメントが必要です。自分が関わることでよりバリューを出せるように、マネジメントの領域もやらないといけないと思って、今年は、デザインリサーチとデザインシステムを統括する「デザイン基盤チーム」のマネージャーに手を挙げました。それが今の自分のチャレンジで、そのためのスキルを身につけていきたいです。

また、アクセシビリティで一発当てたいですね(笑)。アクセシビリティの成功事例をfreeeが作ることで、SaaS業界やウェブ制作業界といった、ウェブに関わる民間企業におけるムーブメントに発展させたいと思っています。

二人の帰り道

林: 内省的な雰囲気ただよう伊原さんですが、関心の目は内というよりずっと外に向いてこられたのかもなという印象をもつ取材でした。自分のキャリアをどう築くかというのではなくて、自分の関心が向くこと、自分がやりたいこと・作りたいもの、自分が必要だ・大事だと思う発見が外の世界にいろいろあって、その巡り合わせを一つひとつやり過ごさず丁寧に向き合ってものにしてこられた結果として、仕事領域の広がり、専門性の洗練、ポジションの変化があり、今のキャリアがあるというふうにお話を受け止めました。既存の職種とか肩書きとか専門分野といった枠組みで自分の仕事領域をしばったり、自分のキャリア選択を一般論にゆだねることなく、自分がやりたいこと、より本質的な価値を生むと自分が信じられる仕事に舵をきり、それを当たり前のこととして日々のパフォーマンスを洗練させ、キャリアの転機を重ねてこられた実直な歩みに、改めて敬服の念を抱きました。

森田: インタビュー中でも述べたのですが、伊原くんはすごく真面目な子でして、必要性を自ら判断したものに取り組み、悩んでも取り組みをあきらめないところがあります。そうしたたゆまぬ努力の積み重ねが、今の幅広いスキルの持ち合わせにつながっていて、そうしたものが現在、伊原くんが向き合っている課題への向き合いに際して全部糧になっているというような状況を感じ取れるのです。元同僚だし、Web黎明期的な青春時代のような時に同じ釜の飯を食べた仲としては、なかなか積もる話もあり、とても記事に出来ないようなことも話してしまったのですが(笑)、キャリア上の各種イベントがきっちり線でつながってるなという印象を受けました。今後の伊原くんの成長と発展にますます期待するとともに、僕も成長して発展したいと思ったのでがんばる気持ちになりましたね。ありがとうございました。

本取材はオンラインで実施
本取材はオンラインで実施
株式会社 深谷歩事務所 代表取締役 深谷 歩
株式会社 深谷歩事務所
代表取締役
深谷 歩

ソーシャルメディアやブログを活用したコンテンツマーケティング支援として、サイト構築からコンテンツ企画、執筆・制作、広報活動サポートまで幅広く行う。Webメディア、雑誌の執筆に加え、講演活動などの情報発信を行っている。
またフェレット用品を扱うオンラインショップ「Ferretoys」も運営。