10月28日、Scientific Americanが「OpenAI just scooped mathematicians' work on another million-dollar problem」と題した記事を公開した。この記事では、OpenAIが数学の未解決問題「ヤン・ミルズ問題」の部分証明を独自LLMで達成し、同問題を追っていた人間の数学者2人を出し抜いた(scoopした)経緯と、それに対する学術界の批判について詳しく紹介されている。
人間チームがOpenAIに出し抜かれるまでの経緯
転機は今年夏、LLMの急速な能力向上が研究レベルの数学の最前線に持ち込まれたことだ。LLMの「超人的な持久力」により、人間なら根気負けするような膨大な数値計算を一気に処理できるようになった。
ノースウェスタン大学の数学者イーサン・サスマン氏はこれを見て、バラバンのプログラム(後述)にLLMを適用することを「やるべき明らかなことだ」と考えた。「主な障壁はアイデアの欠如ではなく、必要な作業量の膨大さだった」と同氏は言う。
一方、AnthropicのリサーチサイエンティストであるLevent Alpöge氏は、Anthropic内部版のClaudeを使って6次元球の問題を解くなどの成果を上げていた。「LLMが100ページの証明を確実に生成できると示した最初の事例だった」とサスマン氏は振り返る。
9月8日——奇しくもOpenAIがナビエ・ストークス方程式の部分解決を発表した日——サスマン氏はAlpöge氏にメールを送り、共同研究が始まった。Alpöge氏はAnthropicのClaudeを複数の「エージェント」として並列稼働させ、数千ページの数学的演算を生成。サスマン氏がその内容を検証・精製するという分業体制を取った。
「驚くべきことに、GitHubに投稿したバージョンに含まれていたミスのほぼすべては、私自身が作り込んだものだった」とサスマン氏は語っている。
10月6日、2人はOpenAIがヤン・ミルズ証明を発表するという噂を聞き、自分たちの進捗を公開GitHubリポジトリに先行公開して権利を主張し始めた。その後OpenAIの発表にヤン・ミルズが含まれていなかったため、2人は作業を継続。日曜夜(10月26日)に3次元版の「存在問題」を解いたとみられる更新をリポジトリに投稿した。
その前夜(10月27日月曜)、OpenAIが4次元版の「存在」パートの証明を発表した。
ヤン・ミルズ問題とは何か
ヤン・ミルズ問題(Yang-Mills problem)は、現代物理学の根幹をなす数学的難問だ。素粒子物理学の「標準模型」は、宇宙に存在するすべての力を17個の粒子で説明するが、その理論を支える「量子場」の数学は厳密性に欠けるとされてきた。
ヤン・ミルズ問題は、この理論を数学的に厳密な基盤の上に置くことを目指す。具体的には2つのパートに分かれる。理論が数学的に矛盾なく「存在する」ことの証明と、「質量ギャップ(mass gap)」と呼ばれる非ゼロ量が存在することの証明だ。この問題はクレイ数学研究所のミレニアム懸賞問題の一つであり、完全解決には100万ドルの賞金がかかっている。なお、今回OpenAIが達成したのはあくまで4次元版の「存在」パートの証明にとどまり、質量ギャップの証明は含まれていない。ミレニアム懸賞問題の完全解決とは区別が必要だ。
1980年代に数学者タデウシュ・バラバンが「存在」の証明への大まかな道筋を示したが、その草稿は数千ページに及ぶ未完のものだった。ニューヨーク大学の数学者ローランド・バウアーシュミット氏は「専門家は十分な年月をかければ完成できると疑わなかったが、何十年も誰も頂上に辿り着けなかった」と述べている。バラバン自身もいつしかこのプロジェクトから離れた。
ヤン・ミルズ問題は、同じくミレニアム懸賞問題の一つであるナビエ・ストークス方程式と並び、AIによる数学研究加速の文脈で繰り返し話題に上る問題だ。OpenAIは9月8日にナビエ・ストークスの部分的な進展を発表しており、今回のヤン・ミルズはその延長線上にある。どちらの問題でも、LLMが「アイデアの欠如ではなく作業量の壁」を突破する手段として機能した点が共通している。
公開しないまま発表——論争の焦点
OpenAIは証明を即座に公開せず、数学の専門家グループに「数学文献として整備」させる方針を取った。この決定は即座に批判を呼んだ。
さらに問題視されているのはタイムラインだ。OpenAIのブログによれば、内部モデルは9月9日に証明に到達していたが、検証用プログラミング言語Leanによるコード化を待って発表を遅らせたという。この検証に「1か月以上かかった」と同社は説明するが、ナビエ・ストークス証明の検証はわずか17時間だったと報告されている。
ナビエ・ストークス問題を巡ってOpenAIと公開論争を続けているニューヨーク大学のトリスタン・バックマスター氏は「ヤン・ミルズのLean検証に1か月かかるはずがない。せいぜい数日だ」と断言している。
Alpöge氏はX(旧Twitter)に次のように書いた。
「私はずっと(サスマンに)、遠慮しすぎると公の場でいつでも出し抜かれると言い続けていた。OpenAIの人々は、公に何度も提案されていたにもかかわらず、彼に連絡して共同研究をするのではなく、このような形を選んだ。」
— Levent Alpöge (@alpoge)
※元記事にAlpöge氏のXポストへのリンクが掲載されているが、投稿URLの実在確認が取れないため本稿ではリンクを省略している。
ハーバード大学の理論物理学者マイケル・R・ダグラス氏は成果そのものについて「量子場理論の厳密化は50年以上かけて進められてきたが、量子色力学のような現実の理論は手の届かないところにあった。これはその始まりに過ぎない」と評価している。
AI企業と学術規範の衝突
今回の一連の出来事は、ナビエ・ストークス問題での論争と構図が酷似している。数兆ドル規模のIPOを目指すAI企業間の競争が、科学的な透明性や学術規範を犠牲にしながら加速している構図だ。
※編集部の考察:OpenAIはIPOに向けた研究成果のアピールを強化している時期にあり、こうした発表のタイミングや方式は純粋な学術的動機だけでは説明しにくい側面がある。AI企業の競争ロジックと、査読・先行公開・共同研究といった学術規範の間の摩擦は、今後さらに顕在化していくと見られる。
関係者全員が「新たな規範の議論が必要」とは口を揃えるが、その整備を待って発表を控える者はいない。証明の帰属や優先権の確認がますます困難になっている現状に、数学コミュニティはどう向き合うのか。議論はまだ始まったばかりだ。
詳細はOpenAI just scooped mathematicians' work on another million-dollar problemを参照していただきたい。