9月9日、Nature誌が「AI model predicts which breast-cancer drugs work best」と題した記事を公開した。中国・西湖大学の研究チームが開発したAIベースの仮想細胞モデルは、訓練に使っていない薬剤81種に対して88%の予測精度を達成し、さらに501名の実患者データで臨床的アウトカムの予測精度も確認された。「どの抗がん剤が効くか」を投薬前に判断するという、がん治療の長年の課題に対して、仮想細胞モデルが初めて臨床シナリオで検証されたことになる。
トリプルネガティブ乳がんとは何か
トリプルネガティブ乳がん(TNBC)は、乳がん全体の**15〜20%**を占める、治療が難しいサブタイプだ。腫瘍細胞がエストロゲン・プロゲステロンの受容体を持たず、さらに細胞増殖を制御するタンパク質(HER2)も欠如しているため、ホルモン療法や分子標的治療が効かない。加えて、腫瘍が分子レベルで個体差が大きく、同じ化学療法でも患者によって効果が大きく異なる。「どの薬が効くか」を事前に判断することが、TNBC治療における長年の課題だった。
3800万件のタンパク質測定値でAIを訓練
中国・杭州の西湖大学でプロテオミクスを専門とするTiannan Guo氏らの研究チームは、この課題に仮想細胞モデル(virtual cell model)で挑んだ。論文は9月9日付けでNature誌に掲載された。
仮想細胞モデルとは、細胞の挙動や薬剤への応答をコンピュータ上でシミュレートすることを目指すAIモデルの総称だ。実験室での試験を部分的に代替し、創薬や治療選択の効率化につながると期待されている分野で、近年複数の研究チームが異なるアプローチで競争している。
モデルの構築に際してチームが採用したのは、従来の仮想細胞研究が主に使ってきたシングルセルシーケンシングデータではなく、プロテオミクスデータだ。プロテオミクスとは細胞内のタンパク質の種類・量を網羅的に解析する手法で、ゲノム情報より直接的に細胞の状態を反映するとされる。
訓練データの規模は以下の通りだ:
- 18種の乳がん細胞株(うち16がTNBC)
- 3800万件超のタンパク質測定値
- 計測したタンパク質グループ数:5,585
- 測定タイミング:薬剤投与前、投与後6時間・24時間・48時間の計4時点
- 訓練に使用した薬剤:FDA承認済み抗腫瘍薬63種と、薬剤の組み合わせ59パターン
時系列での測定を取り入れた点は、カリフォルニア州パロアルトのArc InstituteのシステムバイオロジストであるHani Goodarzi氏も評価している。「時系列データがなければ、静止画をたくさん持っているに過ぎない」と同氏は述べており、細胞の動的変化を捉える上で複数時点の測定が不可欠だと指摘する。Goodarzi氏はまた、プロテオミクスデータを活用したこのアプローチが「これまで仮想細胞モデルになかったモダリティを提供している」と評価している。
訓練に含まれない薬剤で88%の予測精度
モデルの汎化性能を検証するテストでは、訓練データに含まれなかった81種の薬剤に対する細胞応答の予測精度が**88%**に達した。
さらに臨床的な有効性の検証として、化学療法前のTNBC患者501名の腫瘍生検データ(3,651タンパク質の発現量)を分析した。モデルはそれらの患者が実際に受けた治療の臨床的アウトカムを予測できることが確認された。なお、元記事においてAUCなどの精度指標の具体的な数値は示されていない。
Guo氏はこの結果について「仮想細胞モデルが初めて実験室を出て、臨床シナリオで検証された」と述べている。また同氏は、このモデルの目的がTNBCの創薬支援という「非常に焦点を絞ったもの」であり、細胞の包括的なシミュレーションを目指すものではないと明確に位置づけている。
仮想細胞研究の文脈での意義
仮想細胞モデルの研究は近年、大きな注目を集めている分野だ。Natureはこの研究の掲載に合わせて、関連解説記事「Can AI build a virtual cell? Scientists race to model life's smallest unit」も公開しており、複数の研究チームが異なるアプローチで競争していることがわかる。従来の手法が静的な細胞状態の把握に留まりがちだったのに対し、今回の研究はプロテオミクス × 時系列データ × 臨床検証という構成で差別化を図っている。
詳細はAI model predicts which breast-cancer drugs work bestを参照していただきたい。