10月23日、Scientific Americanが「The inside story behind OpenAI's million-dollar math proof」と題した記事を公開した。この記事では、OpenAIのAIエージェント群がナビエ-ストークス方程式のミレニアム懸賞問題を解くに至った内幕と、それをめぐる数学者との対立について詳しく紹介されている。
ナビエ-ストークスとミレニアム懸賞問題
ナビエ-ストークス方程式は流体の流れを記述する方程式群だ。数学者たちは長年、この方程式が特定の条件下で「ブローアップ」—速度が無限大になるという物理的にありえない状態—を予測することがあると疑ってきた。そのブローアップを数学的証明で示せれば、**クレイ数学研究所の「ミレニアム懸賞問題」の1つを解いたことになり、賞金100万ドル**が支払われる。ミレニアム懸賞問題とは、クレイ研究所が2000年に選定した7つの未解決数学難問の総称で、現在もナビエ-ストークスを含む6問が未解決とされてきた。
NYUの数学者トリスタン・バックマスターにとって、ナビエ-ストークスはキャリアの「北極星」だった。彼はすでにDeepMindチームとも共同研究をしていた。
「ロックコンサート」になったセミナー
ニューヨーク大学(NYU)のウォーレン・ウィーバー・ホール109号室。定員を大幅に超えた聴衆が廊下にあふれ、開場と同時に席に殺到した。「この会場がこれほど混んだことは絶対にない」「これは普通のセミナーじゃない、ロックコンサートだ」という声が飛び交った。
登壇したのはバックマスター本人。9月8日にOpenAIが「ナビエ-ストークス方程式のミレニアム賞問題を解いた」と発表した後、バックマスターが公開の場でOpenAIの仕事が自分たちの成果を盗用したものだと批判してから、初めての公開講演だった。
発端:AnthropicとOpenAI、二つの挑戦
約1年前、Anthropic社員の数学者レヴェント・アルポゲからバックマスターに一通のメールが届いた。「最深部の純粋数学の成果を企業だけが独占する世界を恐れている」と書かれ、共同研究が提案された。
二人が着目したのはクレイ研究所の問題設定にある「抜け穴」だ。スペインの数学者コルドバとマルティネス=ゾロアが考案した手法——外部から精密にチューニングした力を流体に加えてブローアップを誘発するプログラム——を出発点に、LLMを使って証明を構築し始めた。使ったモデルはAnthropicとOpenAIの両社のものが混在しており、アルポゲはAnthropicの内部リソースと未公開バージョンのClaudeにもアクセスしていた。
8月15日、アルポゲはClaudeがオイラー方程式(ナビエ-ストークスから摩擦を除いた簡略版、解決への重要なステップとされる)のブローアップに成功したと報告した。バックマスターはその証明を見て「人生で見た中で最もひどい数学だ」と表現した——英語の単語が並んでいるが英語ではなく、LLMたちが独自の「奇妙なスロップ方言」で互いにやりとりしていたのだ。8月22日、この証明は**Lean**(定理証明支援システム。数学的証明を機械的に検証できる)で検証され、正しいことが確認された。
一方、OpenAIの動きは組織的かつ攻撃的だった。8月28日に数学能力が格段に優れた新しい内部モデルのトレーニングを開始。8月31日にアルポゲがTwitterに「Augustus Mirabilis(奇跡の8月)」と投稿したのを見たOpenAIの数学チームリーダーセバスチャン・ビュベックは、Anthropicがミレニアム問題を解いたと判断し、9月1日に全ミレニアム問題へのエージェント総攻撃を開始した。
10,000エージェントと1500万ドル
OpenAIの内部では急速に事態が進んだ。100体のエージェントがオイラー方程式に取り組んだ結果、コルドバとマルティネス=ゾロアのプログラムの核心だった「外部の力」を除去することに成功——力なしに流体を自力でブローアップさせる独自のオイラー証明を生み出した。
そこからチームは1万体の相互通信エージェント群をナビエ-ストークスに投入。報道によれば1500万ドルの計算資源を消費した末、土曜日にナビエ-ストークスの証明を完成させた。ただし、オイラーで除去したはずの「力」を再び導入する必要があった。
決裂した電話
日曜日にバックマスターとビュベックの電話会談が行われた。ビュベックは当初「新モデルが問題文だけを与えられて一発で解いた」と主張したが、会話の途中でエージェントによる1週間の試行錯誤の詳細を明かした。説明が変わるのを見て、バックマスターはOpenAIが誠実ではないと判断した。
ビュベックはバックマスターにOpenAIの論文の筆頭著者の座を提案したが、競合他社Anthropicの社員であるアルポゲの名前を外すことを条件とした。バックマスターがプレスに話すと告げると、ビュベックは「なぜキャリアをリスクにさらすのか?」と返した。交渉は完全に決裂し、火曜日には両チームがそれぞれの証明と主張を同時公開した。
「同じ道」か「別の道」か
事後的な検証で、OpenAIのナビエ-ストークス証明はバックマスターらとは異なる手法を使っていたことが判明した——OpenAI自身の数学チームも最初は同じ道を通ったと思い込んでいたが、誤りだった。
帰属争いにおける重要な証言を行ったのが数学者のFan Zhengだ。彼はコルドバとマルティネス=ゾロアの研究グループに属する協力者であり、スペイン発のプログラムの枠組みに最も精通した立場にある。Fan Zhengは「OpenAIの証明は基本的にスペインのプログラムの枠組みに沿っているが、力を除去するいくつかの技術的困難を克服している」と述べ、バックマスターの見方を支持している。
バックマスターの解釈はこうだ。オイラーの「左の分岐」ではスペインのプログラムをほぼそのまま使い、ナビエ-ストークスへの「右の分岐」では新たなアイデアが加わった——いずれにせよ同じ道を出発点にしていると。
一方でバックマスターも、OpenAIのナビエ-ストークス証明が新しいアイデアを含むことは認めている。証明の正しさ自体は争っていない。問題は「誰がどの貢献をしたか」という帰属の問題だ。
数学という営みが変わる
この一連の出来事が浮き彫りにするのは、AIが数学の歴史的な難問を解ける時代に、その証明の作成過程が企業のプロプライエタリな秘密の中に隠れてしまうという構造的な問題だ。証明は正しくても、誰がどのように到達したかを書き留めることが極めて難しくなっている。
会場を埋めた聴衆の前のノートPCには、ClaudeやChatGPT Codexとのチャット画面が開かれ、証明の構築や論文の書き直しに使われていた。2026年の数学とはそういうものになった——バックマスター自身の講演の冒頭の言葉を借りれば、「昨夜この発表を書いた」ほどの慌ただしさの中で。
詳細はThe inside story behind OpenAI's million-dollar math proofを参照していただきたい。