10月12日、Sean Goedeckeが「Software engineers don't get to be Luddites about AI」と題した記事を公開した。GitHub CopilotやCursorといったAIコーディングツールの普及が加速するなか、「AIに仕事を奪われる」と危機感を抱くエンジニアの声はコミュニティ内で増えている。しかしGoedeckeは、そうしたエンジニアが「現代のラッダイト」を自称することには根本的な矛盾がある、と指摘する。
ソフトウェアエンジニアは「被害者」ではない
AIが自分たちの仕事を奪うかもしれないと怒るエンジニアは多い。その気持ち自体は理解できる、とGoedeckeは言う。しかしその上でこう指摘する——ソフトウェアエンジニアリングはそもそも「他者の仕事を自動化する」行為であり、エンジニアはその恩恵を最も受けてきた職業のひとつだ、と。
すべての商用ソフトウェアは、人間に金を払ってやらせていた作業を機械に置き換えることで価値を生む。Goedeckeが挙げる、エンジニアたちが自動化・縮小させてきた産業の一例が以下だ:
- ビデオレンタル店
- 旅行代理店
- レコード店
- タイプセット会社(印刷の文字組み専門業者)
- トレーディングフロアのランナー(取引所で伝令を走らせていた人々)
- データ入力職
これだけの業種を「過去のもの」にしてきた張本人が、いざ自分たちの番になると「ソフトウェア開発は自動化できない崇高な営みだ」と主張するのか——それは筋が通らない、というのがGoedeckeの主張の核だ。
「ラッダイト」のアナロジーが示す皮肉
ここでGoedeckeが持ち出すのが、19世紀イギリスの**ラッダイト運動**だ。ラッダイトとは、産業革命期に自動織機などの機械導入によって職を失った熟練繊維工たちが、機械を打ち壊した運動を指す。今日、AIに反対するエンジニアの一部はこの運動に共鳴し、「現代のラッダイト」を自称している。
しかしGoedeckeは、このアナロジーの適用が根本的にずれていると指摘する。ソフトウェアエンジニアは繊維工ではなく、動力織機を作った鍛冶職人や機械工の側だ。自動化ツールを作り、他者の雇用を奪ってきた側が、同じ論理で自分たちが自動化されることに抗議している。
さらに皮肉なのは、その機械工たちもラッダイト蜂起のわずか50年後に同じ目に遭ったことだ。製造プロセスの改良により、熟練工でなくても機械を操れるようになり、低賃金労働者に仕事を奪われた。当時の『タイムズ』紙はこう書いた:
「この知識ある技術者たちの叫びは、手織り工の叫びとまったく同じだ——避けられない、抗いようのない法則に対する叫びにすぎない」
機械工たちの争議が4ヶ月で終わった理由のひとつは、「彼らは偽善者だ」という世間の見方があったからだとGoedeckeは言う。
「今さら反対するのは不誠実だ」
Goedeckeはテクノロジーが純粋に善であるとは断言しない。気候変動、SNSの害、テック業界の政治的変化によって、技術を否定的に見る風潮は理解できると認めている。
だが、その上でこう述べる。「それがどちらの側が正しいかはわからない。しかし、エンジニアたちが常にどちらの側のために働いてきたかはわかる——テクノロジーと自動化の側だ」。オープンソースへのコミット1件1件が、技術的進歩という大きな機械の部品になってきた。
その上で、「自分たちが自動化の波をかぶる瞬間に初めて反対に回るのは、品位に欠ける」とGoedeckeは述べる。キャリアを通じて複数の職種の雇用を破壊・変容させてきたなら、自分の仕事が同じ目に遭うことも公平に受け入れるべきだ、という論理だ。
エンジニアへの問い
この記事が投げかけるのは、単なる皮肉ではない。「自分はこれまで何を自動化してきたか」を問い直す視点だ。自動化を善として積み上げてきたキャリアの上に立ちながら、AIによる自動化だけを例外扱いする論理は成立しない——それがGoedeckeの立場だ。
AIへの反発感情は持ちつつも、その感情を「ラッダイト」という歴史的フレームに乗せて正当化することには、少なくともソフトウェアエンジニアには資格がない、という主張は、不快だが反論しにくい。AIコーディングツールをめぐる議論が活発化している今だからこそ、この問いはエンジニアコミュニティに刺さる。
詳細はSoftware engineers don't get to be Luddites about AIを参照していただきたい。