10月5日、IEEE Spectrumが「OpenAI's Navier–Stokes Claim Sparks a Reckoning Among Mathematicians」と題した記事を公開した。OpenAIによるナビエ・ストークス問題の解法主張が数学界に引き起こした混乱と、AI時代における数学研究の在り方をめぐる論争について詳しく報じている。
OpenAIが「ナビエ・ストークス問題を解いた」と宣言
2025年9月13日、ドイツで開催されたハイデルベルク・ローレアット・フォーラム(数学・計算機科学の著名研究者が一堂に会する年次イベント)では、例年とは異なる話題が会場を支配していた。OpenAI、Anthropic、Googleといったテック企業が数学の世界に猛烈な勢いで侵食しつつあること、その是非についての議論だ。
火付け役となったのが、OpenAIによる**ナビエ・ストークス存在・滑らかさ問題の解法主張**だ。
ナビエ・ストークス方程式は流体の運動を記述する偏微分方程式(空間・時間にわたって変化する物理量を記述する方程式の一種)で、「解が常に存在し、かつ滑らかであるか」という問いは未解決のまま25年以上放置されてきた難問だ。クレイ数学研究所が2000年に設定したミレニアム懸賞問題の一つであり、賞金は100万ドル。これまでに人間が解いたのは7問中1問(ポアンカレ予想、三次元球面の位相的特徴づけに関する問題)のみだ。
フォーラムに参加した数学者の一人は記者会見でこう述べた。「能力の向上は、私自身を含む多くの人々の予想をはるかに上回るペースで進んでいる。ナビエ・ストークスを解くというのは、かなり決定的な証拠に見える」。
「OpenAIの振る舞いは極めて不誠実だった」
しかし、この主張は単純な祝福を受けなかった。問題は解法の真偽だけでなく、OpenAIのプロセスにあった。
ニューヨーク大学の数学者トリスタン・バックマスターは、AnthropicのLevent Alpögeと共同でナビエ・ストークス問題に取り組んでいた。バックマスターはOpenAIから受け取ったとされる書簡を公開し、その内容が「強制的で、検閲的で、脅迫的にさえ見える」と主張した。コロンビア大学の数学者マイケル・ハリスはこの書簡を直接受け取った一人で、こう語った。「ソーシャルメディアや従来メディアの多くの報道は、私の印象と一致している。OpenAIが数学コミュニティの規範を踏みにじり、圧力をかけたという描写だ」。
シドニー大学のゲルディ・ウィリアムソンはより直接的に批判した。「OpenAIは極めて不誠実な振る舞いをした。数学コミュニティとしてそれを認める必要がある」。
OpenAIはこの件についてコメントの求めに応じなかった、と記事は伝えている。
「答え」はあっても「理解」がない問題
ウィリアムソンが指摘する問題はOpenAIの姿勢だけにとどまらない。AIが「解を出す」ことと、数学者が求める「理解を得る」こととの乖離だ。
「私たちが数学コミュニティとして求めているのは理解だ。しかしこれまで未解決問題の解決が理解の尺度だった。今、その二つの測定軸が急速に相関を失いつつある」とウィリアムソンは言う。AIの解法は答えを出せても、他の問題に応用できる新たな手法や、人間が理解・活用できる知見を生み出さない場合がほとんどだ。
フィールズ賞(4年に一度、40歳以下の数学者に授与される数学分野最高の賞)受賞者のペーター・ショルツェ(ボン大学)はより冷淡だ。「テック企業はこうした数学の難問を、ベンチマークとして、あるいは一種のPRスタントとして解いているにすぎない」。
現場の数学者が受ける実害
議論が抽象論にとどまらないのは、現場への影響が具体的だからだ。
ケープタウン大学の若手数学者ミタ・ラマブラナは、OpenAIが8月に発表した数学の10の進展のうち2つが自身の研究と重複していたと明かした。「自分が考えていた問題を誰かがLLMに入力するだけで解かれてしまうかもしれない」という不安を語った。研究の独自性そのものが脅かされるという感覚は、ラマブラナ個人にとどまらず、フォーラム参加者の間で広く共有されていたという。
アムステルダム大学でポスト量子暗号(量子コンピュータによる攻撃にも耐えられる次世代暗号技術)の博士課程に在籍するエイルサ・ロバートソンは、周囲の数学者たちがLLMに多大な出費をしている実態を報告した。「ProサブスクリプションMAXで使い、さらに数千ユーロ分のトークンを追加購入している博士課程の学生もいる。博士学生に数千ユーロの余裕はないのに」。
OpenAIは7月に研究者向けに10万ライセンスを無償提供すると発表しており、こうした動きが研究者にLLM利用を事実上強制しているという声もある。「LLMを使って研究するペースで動かないと、同じポストを狙う同期に置いていかれる」。
こうした圧力を受け、ロバートソン自身は博士研究の方向性を数学の深化から「量子安全な暗号への移行が社会に与える影響」へとシフトした。理由はシンプルだ。「LLMの出力を検証するだけの仕事には就きたくない」。研究者としてのキャリア設計がAIの台頭によって根本から問い直されている状況が、ここにも表れている。
残りのミレニアム問題は誰が解くか
ナビエ・ストークスの次の標的についての噂も絶えない。Anthropicは未公開バージョンのClaudeを用いてリーマン予想の関連問題で進展を見せたと報じられている。OpenAIはホッジ予想に取り組んでいると伝えられている。「少なくともいくつかの問題が近く解かれるのは避けられない」とみる数学者は多い。
数学が「AIの能力を示す最良のベンチマーク」として機能している以上、テック企業がこの領域への投資を緩める理由はない。数学コミュニティはそのことを十分理解しながらも、「理解なき解答」をどう扱うかという問いに直面したまま、答えを出せずにいる。
詳細はOpenAI's Navier–Stokes Claim Sparks a Reckoning Among Mathematiciansを参照していただきたい。