10月3日、My Electric Sparksが「Italian Bank Loses $108 Million in AI Scam Using Cloned Executive Voices」と題した記事を公開した。AIによる音声クローニングを悪用し、イタリア大手銀行の会長が「上司の声」を信じて9500万ユーロ(約108億円)の送金を承認した事件の詳細だ。パスワードは変更できる。不審なメールは無視できる。しかし、長年信頼してきた上司や顧問弁護士の声をリアルタイムで「偽物」と見破ることは、人間にとって極めて難しい——本事件はその現実を突きつけている。
幹部の「声」を完全コピー、数か月間発覚せず
詐欺師グループは、イタリア最大手行インテーザ・サンパオロのプライベートバンク部門Fideuram(フィデウラム)から9500万ユーロ(約108億円)を騙し取った。Fideuramはインテーザ・サンパオロ傘下の富裕層向けプライベートバンキング部門であり、イタリア国内最大規模の資産運用残高を持つ。被害が発生したのは2026年2月で、発覚までに数か月を要した。事件はCorriere della Seraが最初に報じ、Reutersが2名の情報源から内容を確認。2026年9月25日に公表された。
手口は段階的かつ周到だった。
- まず、インテーザのCEO Carlo Messina 氏を装ったWhatsAppメッセージが届く
- 続いて電話がかかってくる。声は法律事務所A & O Shearmanのシニアパートナーそのものだったが、AIで生成されたクローン音声だった
- 偽の守秘義務契約書と偽の委任状(Power of Attorney)が添付され、正式な取引に見せかけた
AIボイスクローニング技術は近年急速に普及しており、数秒〜数分程度の音声サンプルから対象人物の声質・話し方を高精度で再現できるツールが商用・オープンソースを問わず広く出回っている。この手口に騙されたFideuram会長のPaolo Molesini氏は送金を承認。資金の大半は中国および香港の口座に振り込まれた。Molesini氏は2026年3月に「個人的な理由」として辞任している。
実際の被害額は「108億円」より小さい
見出しの数字には注意が必要だ。9500万ユーロは詐取された総額であり、現時点での純損失ではない。
捜査当局はすでに5300万ユーロを回収している。内訳は、中国の銀行が約4000万ユーロを返還し、Eurojust(EU加盟国間の司法協力を支援するEUの司法機関)の協力のもとポルトガルで1300万ユーロが差し押さえられた。残りの約3600万ユーロは暗号資産に変換されており、追跡・回収が格段に難しい状況だ。
ミラノの検察当局は、欧州域外に拠点を置く外国籍の人物をコンピュータ詐欺容疑で捜査中。Fideuram役員は現在、捜査対象となっていない。
「声を信じる」本能が最大の脆弱性
AIによる音声クローニングツールは現在、安価かつ容易に入手できる。パスワードはリセットできるし、不審なメールは無視できる。しかし自分の上司や顧問弁護士そのものの声は、人間の防衛本能をすり抜ける。
今回の事件が過去の類似詐欺と異なる点は、規模と準備期間の長さだ。詐欺師たちは最初の送金を実行する前に、数週間かけて信頼関係を構築していた。なお、AIを用いた音声詐欺はイタリアに限った話ではない。2024年には香港の多国籍企業で財務担当者がディープフェイクの「CFO」によるビデオ会議に騙され、約200億円相当を送金した事件が広く報じられた。本件はその手口をさらに洗練させ、金融機関の最高幹部レベルを標的にした点で際立っている。
対策として記事が挙げているのは、古典的だが有効な手法だ。
- すでに知っている番号に折り返し電話する(着信元の番号ではなく、社内名簿や事前登録済みの番号へ)
- 別チャネルで確認を取る(電話での指示はメールや対面で必ず裏取りする)
- 音声だけで送金判断をしない(金額の大小を問わず、複数名の承認フローを必須とする)
技術的対策としては、企業によっては通話相手の音声をリアルタイムで解析し、AIクローンの可能性を検出するツールの導入も始まっている。ただし、攻撃側も同様に技術を進化させており、いたちごっこの様相を呈している。
回収成功が示すもの
5300万ユーロの回収は、国境を越えた迅速な連携が機能した結果だ。Eurojustがポルトガルでの差し押さえを支援したケースは、国際的な法執行協力の実例として今後の参考になる。中国の銀行が約4000万ユーロを自発的に返還した点も異例であり、外交ルートや金融機関間の協力体制が奏功したとみられる。
一方、暗号資産に変換された3600万ユーロの回収は難航が予想される。暗号資産はブロックチェーン上での追跡は技術的に可能な場合もあるが、ミキシングサービスやプライバシーコインを経由されると事実上の回収は困難になる。各事件が捜査当局の知見を積み上げている側面はあるが、被害者にとって楽観視できる状況ではない。今後、金融機関や規制当局が暗号資産への資金移動に対する監視体制をどう強化するかが、同種犯罪の抑止に直結する課題となる。
詳細はItalian Bank Loses $108 Million in AI Scam Using Cloned Executive Voicesを参照していただきたい。