9月27日、Inside AIが「Is China Really Stealing AI? Distillation Debate Hits Washington」と題した記事を公開した。「蒸留(Distillation)」と呼ばれるAI技術手法をめぐり、米中間で外交問題にまで発展した論争の実態を詳しく紹介している。
「蒸留」が外交問題になった
2026年9月下旬、習近平国家主席がトランプ大統領との会談のためワシントンを訪れたタイミングで、機械学習の研究論文でしか使われなかった技術用語が外交上の争点として浮上した。Anthropic、OpenAI、Googleといった米国AI大手が約2年にわたって繰り返してきた主張——「中国企業が蒸留を通じて自社技術を盗んでいる」——が、米中技術覇権争いの中心議題となっている。
蒸留とは何か
蒸留(Knowledge Distillation)は2010年代初頭に開発された手法だ。大規模モデル(教師モデル)が生成した出力データを使い、より小規模なモデル(生徒モデル)を訓練することで、安価なハードウェアで動作する効率的なシステムを作る。
「一方のモデルが教師、もう一方が生徒だと考えればいい」
— Geoffrey Hinton(元Google研究者、蒸留手法の開発者の一人)、The New York Timesより
問題になっているのは、この技術の応用形だ。外部の企業がClaudeやGPTなどのサービスに複数のアカウントを作成し、コーディングや数学といったタスクを大量に実行させ、その出力結果を使って自社モデルを訓練する——これが現在「蒸留による技術窃取」と呼ばれているものの実態である。
重要なのは、ソースコードをコピーしているわけではないという点だ。蒸留する側が見えるのは、モデルが生成した文字列だけであり、内部アーキテクチャにはアクセスできない。この違いが法的判断を難しくしている。
一部の法学者は米国の「企業秘密防衛法(Defend Trade Secrets Act of 2016、DTSA)」に基づく訴訟の可能性を指摘する。DTSAは企業秘密の不正取得・使用・開示を連邦法上の不法行為として規定した法律で、民事・刑事両面での訴追を可能にしている。ただし、米国の裁判所はまだ蒸留行為そのものについて判決を下していない。著作権法も、蒸留が「テキストをそのままコピー」するわけではないため適用が困難とされる。
批判する側も訴えられている
皮肉なのは、蒸留を「盗用」と批判するAnthropicとOpenAI自身が、類似の問題を抱えている点だ。
Anthropicは複数の著作権侵害訴訟を抱えており、著作権のある書籍を無断でダウンロード・保存したとの判決を受け、著者・出版社側に15億ドルの和解金を支払うことで合意した。これは米国著作権史上最大級の和解額とされる。
OpenAIとMicrosoftも、2023年にThe New York Timesが提起した訴訟に直面している。同訴訟は、両社が数百万件のThe New York Times記事をAI訓練に使用したと主張するもので、両社は否定している。
中国の進歩は蒸留だけでは説明できない
中国企業が米国の独自モデルを蒸留している可能性は高い。昨年、中国スタートアップのDeepSeekが高性能・高効率なモデルを公開した際、OpenAIは蒸留による模倣だと非難した。今年6月にはAnthropicが上院議員のTim Scott(共和党・サウスカロライナ州)とElizabeth Warren(民主党・マサチューセッツ州)に書簡を送り、中国テック大手のAlibabaが自社技術を蒸留していると訴えた。中国側は今のところ公式の反論を出していない。
しかし、専門家は蒸留だけで中国の技術的進歩を説明するのは無理があると指摘する。
「自社内で蒸留する場合と違い、外部モデルを蒸留しても得られる情報はごく一部に過ぎない」
— Rehaan Ahmad(AIリサーチトラッキングスタートアップ alphaXiv 共同創業者)
蒸留を行うには、そもそも相応の性能を持つ独自モデルを先に構築する必要がある。蒸留はその精度を高めることはできるが、追加の資金・計算資源・人材が不可欠だ。
「中国の技術力がすべてAnthropicのモデルから来ているという話は、言われているほど真実ではない」
— Charles O'Neill(中国製AIへのアクセスを提供する米企業Basetenのモデルトレーニング責任者)
「蒸留を止めることは事実上不可能」
AnthropicもOpenAIも、不審なアカウントを検知・停止するなどの対策を講じている。しかし新しいアカウントが次々と作られるため、効果は限定的だ。さらに、対策を強化しすぎると正規ユーザーを誤ってブロックするリスクもある。
「蒸留を止めることは基本的に不可能だ」
— Lino Le Van(alphaXiv 研究者)
規制議論はどこへ向かうか
元記事によれば、こうした状況を受けて米議会では規制の枠組みをめぐる議論も進んでいる。AnthropicがScott・Warren両議員に送った書簡はその動きの一端であり、企業側が立法を通じた対応を求め始めていることを示している。ただし、蒸留行為を違法と断じる具体的な法案や規制指針はまだ存在せず、企業・政府ともに手探りの状態が続いている。
蒸留は正当な研究手法であり、潜在的な企業秘密侵害の手段でもあり、地政学的な争点でもある——この三つが重なる地点に今の論争がある。裁判所の判断がない中、次の展開は法廷ではなく、次世代AIモデルの訓練という静かな競争の中で決まるかもしれない。
詳細はIs China Really Stealing AI? Distillation Debate Hits Washingtonを参照していただきたい。