9月13日、Sean Goedeckeが「AI is breaking our proxies for expertise」と題した記事を公開した。AIが数学やソフトウェアエンジニアリングにおける「専門性の代理指標」を構造的に破壊しつつあるという分析であり、その射程はエンジニア自身の評価軸にまで及ぶ。
数学者たちはなぜ怒っているのか
AIがナビエ・ストークス方程式やリーマン・ゼータ関数といった難問を解き始めた今、数学者コミュニティが動いた。フィールズ賞受賞者25名を含む約5000人の数学者が、A Severe Misalignment of AI in Mathematics(数学におけるAIの深刻な乖離)と題した宣言に署名した。
宣言の核心はこうだ。
問題を解くことは、概念的理解という本来の目標に向けたツールであり代理指標にすぎない。AIが「真/偽」の命題をひたすら大量生産することは、新しいアイデアが育つ土壌を破壊しかねない。
これを単なる「自動化への反発」と読み捨てるのは早計だ。Goedeckeは、この不満の構造を丁寧に分解することで、ソフトウェアエンジニアリングを含む他分野への示唆を引き出している。
パズル解法とアイデア生成——数学の二層構造
数学には二種類の活動がある。
一つは「パズル解法」。問題を受け取り、解を見つける行為だ。フェルマーの最終定理のような難問を証明することは、外部の人間にも「凄さ」が伝わる。つまり可視性が高い。
もう一つは「アイデア生成」。ハーディ空間、バナッハ束といった新概念を生み出す行為だ。こちらは数学の本質的な知的作業だが、外部からはその価値がほぼ見えない。どの概念が「自然の分節」を正しく切り取っているかは、数十年の蓄積なしには判断できないからだ。
この二層構造において、パズル解法は重要な間接的機能を持っていた。難問を解くことは「このアイデアが有用である」という証明になり、数学者が本質的な仕事(アイデア生成)に取り組む動機と権威を与えてきた。
AIがグッドハートの法則を発動させる
ここにAIが介入する。AIは難問を「人間には理解できない方法」で解いてしまう。これはグッドハートの法則の典型だ——測定指標がゲームされた瞬間、その指標は指標としての意味を失う。
構造を整理するとこうなる。
- 難問(パズル)は数学的進歩の高可視な代理指標だった
- 解法にはたいてい新しい概念の発明が必要で、解くことがそのアイデアの有用性の証拠になった
- しかしAIは人間に理解不能なやり方で解いてしまう
- AI企業が名声を得る一方、数学的洞察の蓄積は進まない
- パズル解法という代理指標が機能しなくなり、アイデア生成への還流も断たれる
Goedeckeはこの批判に一定の留保も置いている。「AIが新しい数学的概念を生成できない」という主張には懐疑的だ。過去3年間、「LLMはXができない」という言説がことごとく裏切られてきた経緯があるからだ。また、AIが証明を出した後に「それを人間が理解できる形に再構築する」作業が残るとも指摘している。AIによる証明の存在は、人間による証明を探す際の手がかりにもなりうる。
この文脈でGoedeckeが参照しているのが、GwernによるエッセイOn Really Tryingだ。これは「本当に全力で取り組むとはどういうことか」を問う文章で、AIが「正解を出す」ことと「本質を理解する」ことの乖離を考える際の補助線として機能している。
チェスとスピードランが見せる先例
チェスでは、スマートフォンのアプリがマグナス・カールセンに100-0で勝てる。ゲームのスピードランでも、ツールアシスト(TAS)は人間の限界を超えた記録を持つ。それでも両分野では人間同士のリーグが存続し、最も優れた人間に対する称賛も続いている。
さらに興味深いのは、AIが人間のゲームを向上させてきた点だ。チェスのトッププレイヤーはコンピュータの手を学習し、かつて「TAS専用」とされていた動作が人間の手で再現されるようになった。AIによる数学も同様の効果をもたらす可能性がある、とGoedeckeは指摘する。
ソフトウェアエンジニアリングへの直撃
Goedeckeが最後に向き合うのは、自分自身の領域だ。
以前はGitHubに充実したプロジェクト——エミュレータ、自作OS——を置けば、技術力の証明になった。週末にシステムを書き直したという話は神話になった。しかし今、それらの代理指標はすべて疑いの目にさらされつつある。なぜなら、いわゆる「バイブコーディング」——AIに自然言語で指示を出すだけでコードを生成させる手法(vibe coding)——の普及により、成果物だけを見ても本人の技術力が判断できなくなりつつあるからだ。
この問題はポートフォリオの信頼性にとどまらない。コードレビューにおける「このコードを書けるなら理解しているはずだ」という前提、あるいは採用面接における「過去のOSSコントリビューション」の評価軸も、同じ構造的な崩壊に直面している。数学における「パズル解法の可視性」がエンジニアリングにおいては「成果物・コードの可視性」に相当し、その代理指標がAIによって容易に偽造可能になりつつある。
数学と同様、ソフトウェアエンジニアリングも文化的な再構築を迫られている。「AI仕事」と「人間仕事」をチェスのように分離するか、AIが簡単に偽造できない、可視性の高い人間スキルを新たに定義するか——どちらかが必要になる。その過程で、旧来の評価軸で成功してきた人々が不満を抱えることは避けられない、とGoedeckeは率直に述べている。この点においてGoedeckeの分析は断定ではなく、現在進行中の変化に対する冷静な問題提起として読むべきだろう。
詳細はAI is breaking our proxies for expertiseを参照していただきたい。