9月3日、著名テクノロジーアナリストのBenedict Evansが「AI, tools and transformation」と題した記事を公開した。「AIを全社員に配れば変革できる」という発想がなぜ的外れなのか、そしてソフトウェアと業務プロセスの変革に本当に必要なものは何かを、歴史的事例と独自の分析枠組みで論じている。AIの企業導入が加速する今、多くの組織が陥りがちな落とし穴を鋭く指摘した内容だ。
「全員にCopilotを配った」だけでは何も変わらない
大企業はSAP(大手ERPベンダー)、Workday(人事・財務クラウドサービス)、数百のSaaSアプリ、そして無数のスクリプト・スプレッドシートを抱えている。それでも退屈で反復的な作業は消えない。
AIが登場したことで、「コードを書かなくてもツールが作れる。では全部AIに任せれば?」という発想が広まった。しかしEvansはこれを明確に否定する。過去3年間の企業AIデプロイの実態はこうだ。大企業がCopilot(またはChatGPTやClaude)を全社員に配布した結果、少数の社員は積極的に使い生産性を上げた。週2〜3回使う層がそこそこいる。そして残りの大半はほぼ使っていない。
これを「変革管理や研修の問題」と片付けるのは浅い。Evansが指摘するのは、1983年に全社員にPCとLotus 1-2-3(当時のビジネス向け表計算ソフトの代名詞)を配っても、それで請求書処理が自動化されたわけではないという歴史的事実だ。1997年に全社員にWebブラウザを渡しても、それでサプライチェーン管理が変わったわけではない。AIも同じ構図にある。
問題の本質:ツールを作れることと、何を作るべきかを知ることは別問題
エンジニアなら「10分の作業を自動化するために1時間ツールを作る」という冗談に覚えがあるだろう。AIを使えばそのツールが5分で作れる。コードも不要だ。
だが、難しいのはツールを作ることではなく、そのツールが必要だと気づくことと、そのツールが何をすべきかを定義することだ。
優秀な弁護士は一日中案件と依頼人のことを考えている。優れた法律情報収集ソフトウェアがどうあるべきかを考えてはいない。優秀な営業担当者は製品・顧客・競合を考えている。セールスイネーブルメントツールの設計を考えてはいない。
これがいわゆる「フォワードデプロイドエンジニア」(forward-deployed engineer:顧客の現場に常駐し、業務課題を直接ソフトウェアで解決するエンジニア)の存在意義だ。ビルダーであり、AIが何を作れるかを知っている人間が法律事務所や設計事務所を歩き回ることで、弁護士や建築家が見えていない自動化の機会をテーブルの上に拾い上げる。
さらに深い問題がある。過去数十年で自動化してきたものの多くは、最初から「これを自動化しよう」と明らかではなかった。問題が別の何かに埋め込まれていたり、そもそも問題の存在に気づかれていなかった。解決策も「問題を再定義する」「アンバンドルする」という形でようやく見えてくる。多くの成功したソフトウェア企業の前には、正しい問題定義を見つけられなかった失敗作が複数存在する。
「制度化」と「即興」のスペクトラム
Evansはソフトウェアの使われ方を「制度化された(institutionalised)」から「即興的な(improvised)」へのスペクトラムで捉える。
- 制度化された側:SAPやWorkdayのように、会社が購入し、全員が同じ方法で使うことを強制されるシステム
- 即興的な側:Excel、メール、共有フォルダ、CSV、PDFといった自由形式の基盤で、ユーザーが自分なりに解決策を組み立てる
あるタスクが「毎日同じやり方で、多くの人が行い、収益やリスクが伴う」ようになると、企業はそれを制度化する。デザイアパス(人が芝生を横切って自然に踏み固めた近道のこと。転じて、公式なルールより使いやすい非公式な方法が定着する現象)を舗装して固定する、という表現が秀逸だ。これがSaaSアプリが数百本に増殖した理由だ。ちなみに**Carta(スタートアップ向け株式管理プラットフォーム)は、各社がバラバラに使っていた「1枚のスプレッドシート」を置き換えて時価総額40億ドルの企業になった**。
AIはこのサイクルを消すのではなく、閾値を動かす。小規模企業が10人採用するためにGoogle Sheetsを使っていたとする。AIによってそのスケーラビリティが上がるなら、もっと長くSheetsを使い続けるかもしれない。あるいは「ClaudeにNotionを作らせるか?」と考える前に、ちょうどそのユースケース向けのSaaSが登場しているかもしれない。
変革に必要な3つの問い
Evansは、企業が新しい変革的技術に直面したとき、問うべき問いを3つに整理する。
- どう買い、作り、展開するか — 自社開発か、Microsoft/Googleのバンドルか、スタートアップ製品か、Accentureに頼むか
- 自社の業務にどこまで影響するか — 保険会社と法律事務所ではAIの意味がまったく異なる
- ビジネスの経済性に新たな競争圧力や存在脅威をもたらすか — これを判断するのがBain、BCG、McKinseyの仕事だ
「全員にClaude for Xを配る」ではこれらの問いに答えられない。
今は見えていないものが、本当に重要になる
最後にEvansは歴史的視点で締める。新技術が登場すると、まず既存の業務を「より速く・より多く」こなすために使う。しかし時間が経つと、以前は存在すら想像できなかった全く新しいものが生まれる。
AIも同様だ。既存ワークフローの自動化は起きる。だが、これまでのプラットフォームシフトで本当に重要だったのは、「誰も想像していなかった、以前は不可能だったもの」だった。企業のAI戦略を考えるうえで問われるべきは、いま配布できるツールの数ではなく、まだ誰も問いを立てていない課題をどう発見するか、という点にある。
詳細はAI, tools and transformationを参照していただきたい。