8月31日、Coda Storyが「As mathematicians grapple with AI, divisions are multiplying」と題した記事を公開した。AIの数学能力の向上が数学者コミュニティに与える衝撃と、そこから生まれる深刻な分断について詳しく報じている。
フィールズ賞受賞の数日後、OpenAIへ
2026年7月末、フィラデルフィアで開催された国際数学者会議(ICM)でフィールズ賞(数学界最高の栄誉)を受賞した数学者Jacob Tsimermanが、受賞からわずか数時間後にOpenAIへの参加を表明した。
「What a dick move(最低な裏切り行為だ)」——ある数学教授はCoda Story(旧The Atlas。以下、記事中では取材者表記として「The Atlas」と登場する場合があるが、同一媒体を指す)の取材にこう漏らした(匿名)。
Tsimermanはかねてから「AIが人類を滅ぼすオムニサイダル(全滅)的未来」への恐怖を論文に書いてきた、いわゆるAI「ドゥーマー」に近い立場の人物だ。元記事によれば、OpenAIでは安全チームに加わるという。この一件は、数学界が今どれだけ揺れているかを象徴している。
LLMは数学を「解いた」のか
背景として、直近の動きを整理しておく。OpenAIは複数の長年未解決だった数学問題の証明を発表し、別の中国製AIモデルが2026年7月のIMO(国際数学オリンピック)で満点を獲得した。
ケンブリッジ大学教授のTim GowersはOpenAIの証明の検証に協力した人物だが、「AIがこれ以上進歩しなくても、すでに人間がAIと数学問題で競うことは非常に難しい時代に入った可能性がある」と書いている。
ただし、コロラド大学ボルダー校のJoshua Grochow准教授(計算機科学・数学)は冷静に指摘する。
「AI企業のPR戦略の本質は、『数学という知的に最も難しいことを解いた、だから何でも解ける』と言うことだ」
そのうえでGrochowは、「LLMが本物の新しい数学を生み出せるようになってきたのは事実だ。その効用を完全に否定することはできない。ただし、その範囲については議論の余地がある」と述べた。
ヨハネスブルクのウィットウォータースランド大学でシニアレクチャラーを務めるMiek Messerschmidtは、自分が行き詰まっていた問題をAnthropicのClaudeに試させたところ、30分以内に解を出したという。「感情的にどう感じたかって?安堵した。でもこの存在がこんな短時間に何ができるかを思い知って、不安にもなった」。これはあくまでMesserschmidt個人の体験として報告されているエピソードだが、数学者の間に広がる複雑な感情を端的に示している。
数学者が恐れているのは「職の喪失」だけではない
数学者たちの懸念は、単純な「AIに仕事を奪われる」という話にとどまらない。記事が整理する具体的な恐れは以下だ。
- AI依存が進めば、特定の企業が数学へのアクセスを制限・高額化できる
- 優秀な若い数学者が研究ではなく企業の独自アルゴリズム開発に流れていく
- 機械が生み出す数学を理解し検証できる人間がいなくなる
- 客観的真実の証明が困難になる(写真の真偽を判断できなくなったジャーナリズムと同じ問題)
カリフォルニア工科大学のPhD学生Tasmin Chuは8月2日(OpenAIが10件の新たな数学的結果を発表した翌日)に公開したエッセイで、「LLMは数学コミュニティにとって実存的脅威だ」と書いた。
「これはプレスリリースではなく、論戦だ。同じように感じている人間がいることは知っている」
テレンス・タオという「磁場」
数学界に「真に有名な現役数学者は存在しない」と記事は指摘する。唯一の例外がTerence Tao(UCLA教授)だ。飛び級で16歳で修士、21歳でプリンストンでPhDを取得、2006年にフィールズ賞を受賞。「世界最高の現役数学者」と称されることが多い。
7月24日、タオはICMで「Mathematics in the Age of AI」と題した公開講演を行い、「AIツールは今後も進化し続ける」という「作業仮説」を提示した。人間の数学者の役割は問題解決から、AI生成の証明が正しいことを理解し説明する作業へシフトしていく——タオはそう論じた。
興味深いのは取材対応だ。The Atlasの取材依頼に対し、タオのUCLA広報担当者は「Claude AIアシスタントが管理するリビングドキュメントを参照するように」と回答した。このドキュメントはタオの公開発言をもとにClaudeがタオの現在の考えを合成・整理したもので、Claudeがタオにフォローアップ質問を「インタビュー」する形式まで取っている。
なお、ある研究者は匿名でこう語った。「タオはいい人だと聞く。でも、テリー・タオに同意しなければというソーシャルプレッシャーは本当に強い」。
抵抗する数学者たち
全員がタオの楽観論に同調しているわけではない。
トロント大学のIla Varmaとハバーフォード・カレッジのTarik Aougabは3月、ICMボイコットの請願を立ち上げ、2,600人以上が署名した。理由はアメリカの権威主義的傾向やビザ問題——「AI企業は招待されたのに、ビザが取れずに参加できなかったアフリカの数学者が多数いた」とVarmaは述べた。
ニューヨーク市立大学のMax Weinreich助教は、「数学者はAIを使う必要はないし、使うべきでもない。そのうち自分の名前をAIに関連付けたいとも思わなくなる」と論じる。彼の反対はAIの環境負荷や財務リスクといった社会的問題にも根ざしており、数学者は「世界で最も頭がいい人々」と見なされている特権的立場を使って、AIの開発そのものに抵抗すべきだと主張する。
一方、カーネギーメロン大学のPo-Shen Loh教授(元米国IMOコーチ)はより実際的な見方を示す。「AIは数学者を現実世界と向き合わせている。彼らは賢いから実存的危機に気づいている。今まさに全速力でデッドエンドを探っている」。
フィールズ賞受賞者がOpenAIに移り、AIがある数学者の難問を30分で解き、コミュニティは分断され——数学という「すべての科学の基盤」が揺らぐとき、何が起きるのか。答えはまだ出ていない。この問いは数学者だけのものにとどまらず、科学・学術コミュニティ全体が遅かれ早かれ直面する問いでもある。
詳細はAs mathematicians grapple with AI, divisions are multiplyingを参照していただきたい。