8月13日、Matthew Brunelleが「Agentic Engineering Is Just Everything We Haven't Been Doing」と題した記事を公開した。この記事では、AIエージェントを活用するために求められる「良いエンジニアリング実践」が、実は以前からやるべきだったことの繰り返しに過ぎないという逆説について詳しく論じられている。
「エージェントのためにやること」は、ただの普通のエンジニアリングだ
AIエージェントを使いこなすための工夫として、最近よく語られるものがある。チケット管理ツールで要件を詳細に書く、メソッドにドキュメントコメントを書く、プルリクエストに背景説明を添える……。しかしBrunelleは「それは普通のソフトウェアエンジニアリングだ」と断じる。
エージェントに仕事を渡すにはコンテキストを整理する必要があるため、今まで「時間がない」と後回しにしてきた以下のような実践が、エージェント導入を機に見直されている。
- メソッドへのドキュメントコメント
- 内容が伝わるプルリクエストの記述
- ドキュメントを最新状態に保つ(そもそも書く)
- 意味のあるテストを書く(そもそもテストを書く)
- コード規約を決め、自動Lintで一貫性を保つ
- 実装前に設計をレビューしてもらう
- ミーティングの決定事項を記録・共有する
- DM(ダイレクトメッセージ)でなく、検索可能なオープンチャンネルで会話する
これらはどれも目新しいものではない。Brunelleは「今これに興奮している人が増えているのは喜ばしい。ただ、エージェントが出るまで変わらなかったことが残念だ」と書く。要するに、エージェントに対して人間よりも高い基準のコンテキスト整備を求めている現状があり、それは裏を返せば人間同士の協働においてその基準が長らく蔑ろにされてきたことを意味する。
ドキュメントを書くと、全員のエージェントが従う
Brunelleの同僚の発言が、この現象の本質を突いている。
「あるPRをレビューしていて、設計指針に関するコンテキストが欠けていることに気づいた。そこで他のエンジニアのエージェントが将来それを尊重できるように、ドキュメントにその指針を書き込む変更を加えた。こういったドキュメント更新は以前でも可能だったが、現実には効果がなかった。チーム全員に話して、頭に入れてもらう必要があったから。でも今は、適切な構造でドキュメントを書けば、全員のエージェントがそれを読んで従ってくれる。」
人間はドキュメントを読まない。エージェントは読む。この非対称性が、ドキュメントを書く動機を劇的に変えた。
これまでドキュメントを整備しても「誰も読まないから意味がない」という諦念がチームに広がりがちだった。エージェントはその前提を覆す。一度適切に書かれたドキュメントは、チーム全員のエージェントに対して均一に機能する。人間相手の情報共有が「話して、頭に入れてもらう」という反復作業を必要としていたのに対し、エージェント相手では書くだけで済む。この変化がドキュメント文化を変えうるという点は、Brunelleの論考において最も実践的な示唆のひとつだ。
問題の本質:エージェントはmētisを持たない
ここがBrunelleの論考で最も鋭い部分だ。James C. Scottの著書『Seeing Like a State』(邦訳:『国家のまなざし』)から「mētis(メーティス)」という概念を引用している。mētisとは、長年の実践を通じてのみ身につく現場知・暗黙知のことだ。「この状況でルールをどう適用するか」という具体的な判断力であり、文書化された規則では代替できない。
コードの構文はフォーマルに記述できる。しかし「この状況でこの例外をどう扱うか」といったエンジニアリングの判断は、暗黙知に依存している部分が大きい。エージェントはそのmētisを持たない。
そこからBrunelleは、重要なコロラリー(系)を導く。
「エンジニアリングを難しくするものは、エージェントエンジニアリングをはるかに難しくする」
スプリント中に依存ライブラリを無断で変更されたという同僚の例も紹介されている。
「チームが自分の依存関係の一つに変更を加えたが、スプリント中に連絡なしで行われた。小さなリファクタリングをする羽目になった。」
人間のエンジニアであれば、変更の文脈を読んで影響範囲を推測し、必要であれば確認を取ることができる。エージェントにはその文脈読解——まさにmētis——がない。だからこそ、エージェントが絡む開発では「当たり前のコミュニケーション」や「当たり前の変更管理」の欠如が、人間だけのチームよりもはるかに大きな混乱を招く。
機能不全な組織にAIを乗せても問題は解決しない
Brunelleは最後に明確に言い切る。機能不全なチームやシステムにAIを当てても問題は解決しない。 1975年に『人月の神話』(Fred Brooks著、ISBN: 978-4894716650)で示されたブルックスの法則——「遅れているプロジェクトに人員を追加すると、さらに遅れる」——を引き合いに出し、Brunelleはエージェントの増員もこれと同じ構造的問題を抱えうると示唆する。人員を増やせば増やすほどコミュニケーションコストが指数的に増大するというこの法則は、mētisを欠いたエージェントが大量に投入される状況においても等しく作用する。
エージェントエンジニアリングに苦戦しているなら、まず問うべきことは「通常のソフトウェアエンジニアリングもうまくいっていないのではないか」という点だ。ドキュメントが整備されていない、設計判断が暗黙知に依存している、変更管理が曖昧——こうした問題はエージェントの登場によって消えるどころか、むしろ増幅されて表面化する。Brunelleの主張の核心は、エージェント時代の「新しいベストプラクティス」などというものは存在せず、良いエンジニアリングとは常に同じものだったという点にある。
詳細はAgentic Engineering Is Just Everything We Haven't Been Doingを参照していただきたい。