8月7日、Paul Nashawaty氏が「Enterprise AI Is in Production But Half Can't Measure ROI」と題した記事を公開した。大企業の74%がAIを本番運用している今、次の競争軸は「より良いモデルを使えるか」ではなく「そのAIが機能していると証明できるか」だ。調査によれば、本番運用中の企業の半数がROIを計測できておらず、計測インフラの整備が事実上の新たな差別化要因になりつつある。この記事では、その構造的な背景と、企業が直面している3つの壁について詳しく論じられている。
74%が本番運用、しかし半数はROIを計測できず
Plug and Play(シリコンバレーを拠点とする大手コーポレート・イノベーション支援企業)がFortune 500およびForbes Global 2000企業を対象に実施したパルスサーベイ(特定テーマについて短期間・繰り返し実施するパルス型の定点調査)によると、大企業の74%が少なくとも1つのAIソリューションを本番環境で稼働させている。調査対象・実施時期の詳細は元記事に委ねるが、Fortune 500・Forbes Global 2000という大企業層に絞った設計であるため、中小企業の動向とは切り離して読む必要がある。
しかし、その実態に踏み込むと数字の裏が見えてくる。回答者の半数が「まだROIを評価できる段階にない」または「ROIを一貫して計測していない」と回答している。「AIをやっているか?」という問いの答えはほぼ出た。次の問いである「それが機能していると証明できるか?」に、大半の企業はまだ答えられていない。
この構図は今に始まったことではない。クラウド移行やデジタルトランスフォーメーションの波でも、「導入率」と「成果の可視化」の間には常に大きなラグがあった。AIはその規模と速度が桁違いであるため、このラグが経営判断に与えるリスクも大きくなっている。
「本番運用」の実態:1部門に留まるケースが大半
サーベイの内訳を見ると、本番運用しているAIの広がり方が見えてくる。
- 単一ビジネス機能のみで運用:37%
- 複数の機能をまたいで運用:32%
- AIネイティブと自己評価:5%
技術的には「本番運用」と言えても、1部門で1ツールを動かしているだけの状態が大多数だ。これは「企業全体のAI変革」とは程遠い。
アーキテクチャの観点からも、この「封じ込め構造」は重要な示唆を持つ。単一機能のデプロイでは、モデルのバージョン管理、プロンプト管理、推論コストの制御、複数チームへのアクセス制御といった、スケール時に本質的になる設計判断が試されない。
記事ではECI Research(エンタープライズIT領域を専門とする調査機関)の2026年版調査も引用されており、エンジニアリング組織の65.2%が「新規イノベーションに充てる工数は0〜20%」と回答しているという。余剰リソースが乏しい中でAIを1部門から多部門に拡張しようとすれば、その限られたイノベーション予算はすぐに枯渇する。AIスケール化がなかなか進まない背景には、意欲や技術力の問題だけでなく、こうした組織のキャパシティ制約が強く作用している。
ROI計測を阻む3つの壁
調査ではAIスケール化を阻む障壁として以下が挙げられている。
| 障壁 | 回答割合 |
|---|---|
| データ基盤の未整備 | 71% |
| ガバナンスの摩擦 | 53% |
| レガシーシステムとの統合 | 26% |
データ問題:想定内だが、スケールは予想外
71%がデータ基盤を最大の障壁として挙げているのは、過去20年のエンタープライズソフトウェアの歴史を見れば驚くことではない。新技術の採用は、それを支えるインフラの整備を常に先行する。ただし、AIでは代償が大きい。CRMの調整不足は営業を遅らせるだけだが、根拠の不十分なAIモデルは、誤った出力を大量かつ自信満々に生成し、それが顧客対応・財務モデル・業務判断に直接触れる。
記事はITの意思決定者向けに「データ品質・パイプラインの整合性・ガバナンス基盤への投資は、AI予算の"前工程"ではなく、それ自体がAI予算だ」と明確に述べている。
ガバナンスの欠如が最大の競争要因
53%が挙げるガバナンスの摩擦は、ROI計測問題の根本に直結する。ガバナンスとは、AIがもたらす価値を計測・制御し、取締役会や規制当局の前で説明できる状態にするための仕組みだ。ROIを計測できない企業の多くは、そもそもその計測を可能にするガバナンス層を構築していない。
ECI Researchの別調査(同機関がエンタープライズIT支出動向を追跡する調査シリーズの一部)では、58.2%の回答者がAIガバナンス支出を「10〜25%増加させる」と回答しており、市場全体がこのギャップを認識し始めていることがわかる。現場の課題認識が予算配分に反映され始めたという意味で、この数字はガバナンス市場の今後を占う先行指標として注目に値する。
また記事はベンダー選定の観点からも言及している。今後12〜18ヶ月で、AI導入企業のベンダー評価基準は「モデルの性能」から「ガバナンスと可観測性(オブザーバビリティ)をサポートするアーキテクチャを持っているか」へとシフトするとしている。
次の競争軸:計測インフラ
記事の結論は明快だ。次のエンタープライズAI競争はモデルの性能ではなく、計測インフラで決まる。AIデプロイを適切に計装(インスツルメンテーション)し、コストと成果を機能単位で帰属させ、他のエンタープライズソフトウェアと同等の厳密さでROIを示せる組織が前に出る。
逆に計測できない組織は、技術の潜在的価値とは無関係に、AI予算の統廃合を迫られる内圧にさらされる。「AIへの投資は成果を出しているのか」という問いに経営層が答えを求め始めた今、その問いに定量的に応答できる体制を持つかどうかが、AI戦略の継続可否を左右する。データプラットフォームベンダー、AIガバナンスツール、オブザーバビリティプラットフォームが今後2〜3四半期でエンタープライズAI向けのポジショニングを積極的に強化してくるとの見方も示されている。
詳細はEnterprise AI Is in Production But Half Can't Measure ROIを参照していただきたい。