7月30日、PYMNTSが「South Korea Turns AI Into a Public Utility」と題した記事を公開した。韓国が全国民5200万人にAIチャットボットを無償・無制限で提供する世界初の国家プロジェクトを立ち上げた。各国がAI規制や安全保障審査に取り組む中、技術そのものを国民インフラとして配布するという前例のない賭けに出た格好だ。
AIを「電気・水道」と同列に置く韓国の賭け
韓国科学技術情報通信部(Ministry of Science and ICT)は7月13日、「AI for All Project」(AI for Everyone)の事業者入札を開始した。このプログラムは、ブロードバンドや公教育と同様に、AIを国民インフラとして位置づけるものだ。G20加盟国の中で、政府が全国民へのAI無償提供を正式に宣言したのは韓国が初めてである。
サービスの公開ベータは2026年9月末を予定しており、年内の全国展開を目指している。科学技術情報通信部長官は発表の場でこう述べた。
「AI for Allは単なるサービスではない。AI時代における電卓であり、コンピューターだ」
この発言が示すのは、AIアクセスを「あれば便利なもの」ではなく「社会参加に必要な基礎インフラ」として捉える姿勢だ。電卓やコンピューターが普及した時代に社会が大きく変容したように、政府はAIを同等の転換点と位置づけていることがわかる。
2フェーズの構成:チャットボットから「代行エージェント」へ
プログラムは2段階で構成されている。
フェーズ1:汎用チャットボット
日常的な質問や文書作成を支援する一般向けチャットボット。利用制限なし、完全無料で提供される。
フェーズ2:プロアクティブ公共サービスエージェント
ここが特に構造的に異例だ。市民の状況を読み取り、受給資格のある行政給付・奨学金・各種制度を先回りで通知したうえで、申請書類の記入まで代行する。対象として最初に想定されているのは、デジタル弱者層だ。韓国政府の調査によると、AIを利用したことがある国民は全体の**59.4%に対し、デジタル弱者層では31.9%**にとどまっており、その格差を埋めることが主目的となっている。
フェーズ2が目指す「先回り通知+申請代行」の組み合わせは、従来の電子政府サービスとは一線を画す。従来のシステムは「市民が自ら調べ、自ら申請する」ことを前提としており、情報格差がそのまま給付格差につながる構造だった。エージェントが「あなたはこの制度を受けられます」と能動的に働きかけることで、その構造を反転させようとしている。
さらに2027年以降は、「一人一エージェント(one agent per citizen)」モデルへの移行を目指すとしている。個人の状況に継続的に対応するパーソナルAIを、全国民が持つ社会を実現するというビジョンだ。
80%国産モデル要件という技術的な縛り
このプログラムで見落とせないのが、事業者に課される国産AIモデルの使用義務だ。
- 自社の国内認定基盤モデルを通じたクエリ処理:最低50%
- 他の韓国企業モデルを通じたクエリ処理:追加30%
- 合計:国産モデルが80%以上を占める構造
外国モデルの利用は限定的に認められるが、その分のコストは政府補助の対象外となり、事業者が自己負担する。AIスタートアップ向け情報を発信するPebblousのブログ(※一次情報ではなく、入札ルールを分析した第三者解説として参照)によれば、この設計は特定1社が自社モデルだけでサービスを構築することを構造的に防ぐ効果を持つとされている。複数企業のモデルを組み合わせることが事実上義務づけられる設計により、特定ベンダーへの依存集中を避けつつ、国内AI産業全体の底上げを図る狙いがあるとみられる。
政府は選定した2〜3社の民間事業者に対し、初期運用用としてNvidia B200 GPU 512基のプールを共同提供する。
この国産化要件が現実的なのは、韓国がこの2年間で国内AIサプライチェーンを整備してきたからだ。**Naver、LG AI Research、SK Telecom、Upstage**といった開発企業が国内AI産業を支えており、80%という高い国産比率の要件を満たせる素地がすでに整っている。また、2026年1月22日にはAI Basic Act(AI基本法)が施行された。アジア太平洋地域初の包括的AI法として、政府がAIアクセスを公共便益として推進するための法的根拠が整ったことも、今回のプロジェクト推進の重要な背景となっている。
現状との乖離:有料サービス加入者はわずか180万人
現在、商用AIサービスに課金している韓国国民は180万人にとどまる。一方で、生成AIを日常的に使っている人口は約2300万人(約44.5%)に上るという。つまり、多くの国民は無料枠や限定的な利用にとどまっており、有料サービスへの移行が進んでいない実態がある。
この数字が示すのは、「使いたい意志はあるが、コストが障壁になっている」という構造的な問題だ。有料プランに移行しない理由が費用にあるとすれば、無償提供によって利用の深度と質が変わる可能性は十分にある。政府が「インフラ化」を選んだ背景には、このギャップを市場原理だけでは埋められないという判断があるとみられる。
「規制する」国は多い、「配布する」国はゼロ
各国政府はこれまで、AI規制・補助金・安全保障審査といったアプローチでAIに関与してきた。EUはAI Actによるリスクベースの規制を整備し、米国は国家安全保障の観点からの輸出管理を強化している。だが、技術そのものを全国民に配布すると約束した国は存在しない。
もしこのプログラムが機能すれば、韓国モデルは他国に対して「AIをブロードバンドや国民IDのように国家が標準化・資金提供して普及させる」という前例のないテンプレートを提供することになる。AIの「持つ者」と「持たざる者」の格差が国際競争力にも直結しつつある今、その分断を国家が正面から引き受けるというアプローチは、今後の各国の政策議論に影響を与える可能性がある。
詳細はSouth Korea Turns AI Into a Public Utilityを参照していただきたい。