7月25日、RuntimeWire.comが「ChatGPT wrote her "resignation." She says she never meant to quit.」と題した記事を公開した。AIに「断りのメールを書いて」と頼んだら「辞表」が生成され、そのメールが法廷で証拠採用された――本人の意図とAIの出力がこれほど乖離し、かつ法的拘束力をめぐる争いに発展したケースは、エンジニアや創業者にとって見過ごせない先例となりつつある。
ChatGPTが書いた一通のメールが「辞表」になった
バーチャルイベントプラットフォーム「Run The World」の共同創業者(CTO)であるXuan Jiangは、2023年4月3日にChatGPTを使ってメールを起草した。彼女が意図したのは、会社側が提示した株式買取(バイアウト)の提案を断ることだった。しかし生成されたメールの冒頭にはこう書かれていた。
"I have made the difficult decision to step down as the tech co-founder of Run the World."
(「ランザワールドの技術共同創業者を退任するという難しい決断をしました」)
Jiangは2026年4月10日の証言録取(デポジション:訴訟前に弁護士が証人から宣誓のもと証言を得る手続き)でこのやり取りを認めた。
「あなたがChatGPTにこれを書かせたんですよね?」(弁護士)
「そうです」(Jiang)
Jiangが与えたプロンプトの意図
Jiangが当時モデルに伝えようとした内容は以下の3点だったと証言している。
- バイアウト提案を断ること
- 拒否によって会社がウィンドダウン(清算・事業終了)に向かうことを理解していること
- 投資家(a16z)のConnie ChanとPeter Blackwoodとの関係を今後のAIスタートアップのために維持したいこと
ところがChatGPTが生成したメールは、あたかもJiang自身が会社を去る意思表明をしたかのような文面になっていた。「new leadership(新しいリーダーシップ)」への言及や、「自分の関与なしに会社を継続する」という表現が含まれており、a16zのパートナーもccに入っていた。
「new leadership(新しいリーダーシップ)」という表現について問われると、Jiangは「ChatGPTが何をするか、私にはわからない」と答えた。
会社側の主張とJiangの反論
Run The Worldはこのメールを根拠に、サンフランシスコ上位裁判所(事件番号:CGC-24-618394)に略式判決(サマリージャッジメント:陪審審理を経ずに裁判官が証拠のみで判断を下す手続き)の申し立てを行っている。会社側は「"moving on"という表現や、新リーダーへの支援申し出は、客観的に辞表と読める」と主張する。
Jiangの反論はこうだ。「"step down"はウィンドダウン(清算・事業終了)に伴う創業者ロールの終了を指しただけであり、従業員・CTO・取締役としての辞任ではない」。彼女は会社の清算が完了するまで在籍し続けるつもりだったと証言している。
会社側の弁護士(Wilson Sonsini所属)が2026年4月12日に「本日付けで退職を確認します」と送ったメールに対し、Jiangはすぐさま「退職した事実はない」と返信したとされるが、この返信メールは公開記録には含まれていない。
拒否されたバイアウトの条件
争いの発端となったバイアウト提案の内容は以下の通りだ。
| 項目 | 金額 |
|---|---|
| 既確定株(3,833,333株)の買取 | $344,999.97(1株あたり$0.09) |
| COBRAヘルスケア12ヶ月分 | $4,917.84 |
| 退職・免責合意書署名の対価 | $30,000 |
| 合計 | 約$379,917.81 |
Jiangはこの提案を「満足できる内容ではなく、受け入れない」と述べた。当時会社には約700万〜800万ドルの現金が残っていたとされており(Jiangの証言およびAxiosの報道より)、提案額との乖離が訴訟の背景にある。
妊娠と「報復」の疑惑
訴訟の争点はAI生成文書の解釈にとどまらない。Jiangは妊娠差別および不当解雇も申し立てており、バイアウト交渉との時系列的な重なりがその根拠となっている。
Jiangは2023年2月6日のビデオ通話でCEOのXiaoyin Quに妊娠を告げた。その同じ通話で、会社のAIピボットとJiangの株式買取の話も出た。その後Jiangは3月6日に病気休暇を申請したが、以降に彼女のNotion、Gusto、Google Workspace、Brex、会社銀行口座へのアクセスが制限・削除されたと主張している。Jiangはこれを妊娠告知後の報復的な措置と位置づけているが、Run The Worldはあくまでも申し立ての段階であり、会社側は否定している。
Run The Worldは、これらの連絡は2023年3月の地域金融危機(シリコンバレー銀行破綻に端を発した騒動)に伴う緊急の業務対応だったと反論している。
訴訟の現状
Run The Worldは2026年4月24日に略式判決を申し立て、妊娠を理由とするハラスメントおよび公序良俗違反の不当解雇の2点について判断を求めている。審理は2026年9月11日、陪審裁判は2026年11月16日に予定されている。
Run The WorldはJiangが退社後にドメインやシステムを妨害したと主張して2023年6月に提訴、約70万アカウントに影響する障害が発生したと主張している。連邦裁判所はコンピューターアクセス関連の訴因を棄却し、残る州法上の請求は州裁判所に差し戻した。Jiangは妊娠差別、不当解雇、株主権侵害、およびa16zによる不正行為(misconduct)をそれぞれ申し立てている。なお、a16zへの申し立てはあくまでJiangの主張であり、裁判所が認定した事実ではない点に留意されたい。
なぜこの事例が重要か
AIが生成した文書が本人の意図とは異なる意味を持ち、法的証拠として採用される――これは今後のエンジニアや創業者にとって他人事ではない事例だ。特に高リスクな交渉やコーポレートコミュニケーションでAIに文章生成を任せる場合、生成結果を逐一精査する必要があることを本件は明確に示している。「ChatGPTが何をするかわからない」という証言が法廷で飛び出す時代に、AI生成文書の取り扱いはもはや法務リスクの一部である。
詳細はChatGPT wrote her "resignation." She says she never meant to quit.を参照していただきたい。