見た目の美しさとアクセシビリティのパラドックスの話から派生して、僕の脳内に出現したポエムをご紹介

UX MILKに「見た目の美しさとアクセシビリティのパラドックス」(原文 The Aesthetic-Accessibility Paradox)なる記事が投稿されていて、僕は本記事の主題である脳内ポエムとは関係なく、まずこの記事に対しては以下のようなブコメをした。

こう並べて見比べると、少なくともフォームはハイコントラストのほうが使いやすさはもちろん、見た目も良いのでは? 線うっすいフォームとか正直いらつきしか感じないわ。
[B! UX] 見た目の美しさとアクセシビリティのパラドックス | UX MILK – securecatのコメント

ようはあまりこの記事の内容に共感してなくて、どちらかというと批判的なんだろうなあと、自分で書いたコメントながらもそんなふうに感じる文章といった趣きがある。

さてこの記事に対する僕の興味はこれで終わるはずだったのだが、そのあとますPが自身のブログで言及記事「見た目の美しさとアクセシビリティを戦わせないで | masuP.net」を著わしたのだ。

この内容はまあ、そもそもビジュアルデザインとアクセシビリティが対立するものではないと知っている、きちんとアクセシビリティと向き合ってきた従事者の誰もが思ったであろう感想を代弁している感じなのだが、しめくくりにますP個人の想いも綴られており、さすがは”でもやるんだよ勢”だなという、これまた趣きがあり読み応えのある良記事だ。

まあそれで週末ますPの文章を読んで、今度こそ僕の本件にまつわる興味は収束に至ったはずだったのだが、今朝、SVG伝道師の松田さんが、Facebookで上述のますPの記事をシェアしたのだ。コメントのない無言シェアであったものの、タイムラインでそれに出くわし、そして僕は再びますPの記事を読んだのである。

反芻というか既に何度目かの考察をしていたものを改めて読むことで、今度は少し異なる感想を抱いた。それは、UX MILKの元記事がナンセンスであることは勿論なのだが、ますPの記事もなんかちょっとずれているのでは?というわずかな違和感である。

松田さんのFacebookに、以下のようなコメントをした。

アクセシビリティて実装レイヤーでは完全にユーザビリティを包含してるので、コンフリクトしまくりなんだよね、世の中の実情的には。テプラで情報掲示が補強されてるほぼすべての事象がまさにそれ(セブンコーヒーの事例などその中の1つに過ぎない)。
webの世界観だと、むしろ両立できてるケースの方が多いんじゃないのっていう(情報に到達するためのアクセス性確保手段が常に複数あるため)。

つまり、元記事がナンセンスなのは言わずもがなだけど、ますPのこの言及記事もびみょーにナンセンスなのかもしれない、と思ったという話。

ますPの記事では、バランスをとることは出来るがコンフリクトするケースもあり悩ましいというような感じに書かれていて、それはその通りなのだけど、とはいえ現実問題としては、やはりコンフリクトするケースのほうが圧倒的に多いんじゃないのと思ったわけだ。そして、そこまで書いてから、唐突に脳内にポエム的なものが出現した。ここでいうコンフリクトというのは、情報提供側から見た側面でしかないのではないか。アクセシビリティという概念は、情報の提供者とその受け手との間で情報が行き来する際の界面であって、その界面の在りようは自由であるべきだろうということだ。

僕は脳内に出現したポエムを、そのまま文字列に変換してスマホの上で指をすべらせた。

webの世界観でのアクセシビリティの面白いところは、提供者がアクセシビリティをよしんば諦めたとしても、webの技術を通して情報が伝達されようとしている限り、情報の受け手がアクセシビリティを諦めなければ到達しうるというところだろう。これはアクセシビリティという界面が誰のものでもないということでもある。

もちろんこれは、実装者のやらない言い訳を補完するものではない。なんというか、自由の保証はオープンな標準の上にあるよなあみたいな、ただの感想。

なお、受け手の”諦めなさ”は、当事者自身が技術を身につける必要性を示唆しない。諦めないというニーズがあれば、アクセシビリティはあとから作られる。アクセシビリティの界面にはサプライヤーが存在する。これも、なんか面白いなと思うところ。当然ながら、提供者が最初からアクセシビリティを担保していれば全体コストは下がるはずなのだが、そうではない局面に対処し得た経験は、未知のメディアへの対応として生きてくるのだろう、人類的観点としては。

たとえば整然と積み重ねられた引き出し型の収納ボックス。壁際に配置すれば、見た目の雑然さが排除されることにより向上する要素があるだろう。でっぱりとかを極力排除すれば前を通り過ぎることも容易である。表面が無地であるがゆえにテプラでも何でも貼りやすい。あらゆる要素は、それに対応する要素をプラス方向に向上させるきっかけとなりうるといえるだろう。

デザインが先にあって、アクセシビリティは後からやってくる。

しかし物事の多くにはセオリーがある。アクセシビリティのガイドラインはまさしくその集大成だ。それらはデザインが先にあったところにおいて発露したニーズを埋めるべく生み出された、デザインに対する経験則の集大成ということだ。つまり、この両者はバランスをとったり両立させたりという関係性ではない。アクセシビリティはデザインの成果を向上させるものなのだ。しかも面白いのは、物理的な現実世界と違い、webではアクセシビリティは視覚的に見えるようにも見えないようにもあらゆるやり方を使うことができ、デザインに働きかけることができ、情報の受け手のニーズを満たすことができるということだ。くわえて、一般にアクセシビリティといった場合、それはガイドラインを土台とした知見を指しており、未知のものを指していない=既知のアクセシビリティのことを言っている。事実、まったく未知のデザインなどほとんど無いのだから、すなわちアクセシビリティはデザインの邪魔をしない。

なんというかあくまでも勢いだけのポエムを書き連ねただけだが、僕は改めて強く思った。

そう、恐れずにアクセシビリティを実装すればいいのだと。

 

勢いだけはある!
勢いだけはある!

posted with amachazl at 2020.03.16
橋本由香利
avex pictures (2018-08-29)