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Technology

村井純

インターネットの父、戦いの歴史。
“アンワイアード”な現在に思うこと。

「日本のインターネットを振り返ると、彼は常にその中心にいた。“日本を繋げた男”がインターネットの『真実』を語る」──。1996年当時、慶應義塾大学環境情報学部の助教授だった村井純を表紙に起用した雑誌『WIRED』日本版は、そう書き出して村井のロングインタヴューを掲載した。あれから22年。インターネットをつくった男は、いまもなおインターネットの最前線でイノヴェイションと向き合っている。“インターネットの父”は、現在をどう眺めているのか。そして、次の時代をどう見据えているのか。

PHOTOGRAPH BY HIROMICHI MATONO
TEXT BY OSAMU INOUE

2018.12.11 Tue

Profile

村井純

JUN MURAI

1955年生まれ。東京都出身。79年慶應義塾大学理工学部数理工学科卒業。工学博士。84年、慶大と東京工業大学を接続する日本初のネットワーク間接続「JUNET」を設立。88年にインターネット研究コンソーシアムWIDEプロジェクトを発足させ、インターネット網の整備・普及を進める。2011年、日本人として初めて「IEEE Internet Award」を受賞。ISOC(インターネットソサエティ)の選ぶPostel Awardを受賞し、2013年「インターネットの殿堂」入りを果たす。

慶應義塾大学教授の村井純がたどってきた軌跡は、インターネットの歴史そのものである。1984年、東京工業大学総合情報処理センターの助手となった村井は、それまで大学院生として研究していた慶大からデータを移動させるのが面倒になり、双方の研究室を大学の正式な許可なくネットワーク接続させた。それを「JUNET」として全国の大学を結ぶ学術ネットワークとして発展させると、ちょうど30年前の88年、今度は産学共同の「WIDEプロジェクト」を発足させ、日本の商用インターネットの礎を築いた。

『WIRED』が米国で創刊された93年には、インターネットに欠かせないIPアドレスを管理するJPNICや、日本初の商用プロヴァイダーであるインターネットイニシアティブ(IIJ)が発足し、インターネットを誰でも使える時代が始まった。そのすべての中心には、村井というイノヴェイターがいた。そしていまも、彼はサイトブロッキング問題で議論を巻き起こした政府の検討会議で座長を務めるなど、インターネットの最前線に立ち続けている。

雑誌『WIRED』日本版の1996年4月号は、ギタリストでもある村井純がロックスターに扮して表紙を飾った。PHOTOGRAPH BY HIROMICHI MATONO

優れた発想力と革新によって「新しい未来」をもたらすイノヴェイターたちを支えるべく、『WIRED』日本版とAudiが2016年にスタートしたプロジェクトの第4回。世界3カ国で展開されるグローバルプロジェクトにおいて、日本では世界に向けて世に問うべき"真のイノヴェイター"たちと、Audiがもたらすイノヴェイションを発信していきます。

──22年前の『WIRED』日本版でインタヴューを受け、雑誌の表紙にもなっています。そのときインターネットの普及について「ぼくが声を大にして『これ必要なんだよ』と言わなくても、みんなが進めていってくれると思う」と語っています。描いていた未来の通りになっていますか?

うん、結構予想していた通りの世界になっている気がします。つまりすべての人が使えるとか、生活や経済に欠かせないインフラになっているとか。人間の創造や新しい課題解決、夢の実現、そういうことをやりやすいようにする、コストや時間をかけずにできるようにするというのが、われわれが目指してきたインターネットというインフラなんです。

たとえば地震のような災害が起きたとき、医療や食糧と同じくらいにインターネットの復旧が重要になってきている。インターネットが復旧すれば、どこの橋や道路が壊れているのかわかるし、そうすれば物資を送る戦略を立てやすい。どこで誰が助けを求めているのかもわかるので、支援物資を分配する戦略も立てられる。インターネットがいちばん大事なライフラインになってきているというのは、過去に何度か災害ではっきりしましたよね。

ただし、いちばん変わったというか予測を越えたなと思うのは、まさにこの雑誌のタイトルじゃないけれど、「ワイアード(有線)」の部分。すべてのモノがコンピューター化しちゃっている、つまりIoTみたいなことは当時からイメージできていたんだけれど、ワイアード(有線)が、ここまで「アンワイアード(無線)」になるっていうのは、ちょっと予想できなかったですね。

90年代後半から電子メールが携帯電話で使えるようになり、「iモード」でインターネットの表示もできるようになった。それはそれで、うれしかったけれども、本当にモバイルインターネットが広がったのは、2009年に「iPhone」が登場してからなんですよね。そこから、たった10年もしないうちに、ここまでアンワイアードな世界になっちゃった。

だから、いつもこの『WIRED』の表紙を使ってるんですよ。「インターネットができたとき、『WIRED』っていう雑誌はいちばん格好いい雑誌だった。けれど、タイトル見てみろよ。ワイアードだぜ。いま、みんなが使ってるのはアンワイアードだろ?」っていうことを話すために。創刊したときはきっと、インターネットがまさかここまでアンワイアードになるとは思わないでタイトルを決めてるんだからさ。それがいちばんの予期せぬ進化だよね。

でも、それ以外はだいたいわかっていた。そういう意味では、まんまとその通りになってるな、という感じがします。

──今年は商用インターネットの礎となった「WIDEプロジェクト」を村井さんが立ち上げてから、ちょうど30周年という節目の年です。振り返りの前に、“日本のインターネットの父”と呼ばれていることについて、どう感じていますか?

そうねえ。“日本のインターネットの父”って言われるのには抵抗があって。だってインターネットっていうのは世界のみんなでつくったんだからさ。インターネットのパイオニアとかファウンダーのひとり、って言われるならいいんだけれど、なんか日本にインターネットをもってきたやつと言われると、「世界のみんなと一緒にインターネットをつくったんだ。日本だけじゃねえや」っていう突っ張りが、ちょっと出ちゃうんだよね(笑)

インターネットが社会にもたらす影響の多くを村井は当時から予想できていたが、“アンワイアード”な世の中になることまでは予想できなかったという。PHOTOGRAPH BY HIROMICHI MATONO

──村井さんはインターネットをつくった黎明期の功労者ですが、いまこの2018年も現役としてインターネットの最前線に立ち続けています。

先端を走っているというよりは、なんていうか、いつもリスクを感じているんですよね。特に最近は誰もがインターネット上で仕事をするようになって、それは望むところなんだけれど、一方で忘れちゃうんですよ。インターネットはグローバルな空間で人類の財産であり、政府はコントロールできないんだよ、ということを。

つくったときはそれが当たり前だったんだけれど、インターネット・ネイティヴな人たちが出てきちゃうと、これは警察が管理してるのかな、インフラだから国がやってるんだろうな──なんて言われたりして。そうじゃないわけだよね。だから、正しい理解をつないでいかなきゃならない。

それから、インターネットの適用領域は広がっていくと思うけれど、いまだに理解されてない業種や業界みたいなところには、また新しいアプローチが必要なんだよね。たとえば、医療はまだまだ手つかずみたいなところがある。だけど、そこに手を出そうとすると、病院や医者、厚生労働省、あらゆる医療関係の人たちに「あのさ、インターネットっていうのは……」みたいな話をしなきゃならないんだよ。

それぞれが抱える心配や困難は違うから、あの手この手で丁寧にそれを一つひとつ、つぶしていかなきゃならない。だから、やってることは昔と変わってないんだよね。やっぱり、理解してもらわなきゃいけないっていう使命感がある。先端を走り続けている気はないけれど、“落ち穂拾い”はいつもやっているという。30年前から同じことをやっているだけです。

──インターネットに限らずIT革命や情報革命というものは、誰かがどこかでやんちゃなことをしたり、力業で推進したりしたことが、のちにイノヴェイションだと評価されてきました。村井さんも、いまでこそ多大な功績が評価されていますが、かつては敵だらけ。それこそ、NTTや郵政省との戦いの歴史でもありますよね。

たとえば、NTTが背中を押してくれた部分があるとしたら、1985年に電電公社から民営化したときがポイントだった。それを除けば、その前もそれからもずっと“地下組織”でしたね。だって84年当時、この国では黒い電話機から延びた線がそのまま壁に吸い込まれていって、ほかの電話機に交換することすらできなかった。電話線を切って外して付け替えるなんて、犯罪だったんだから。

そんな時代、じゃあ1年後に電電公社が民営化されて「通信自由化」になったら、どうなるんだろう──。そう思って米国からモデムを輸入して、届け出なく実験したりしていたんだから、いま考えたら相当にワルいよね(笑)。ドキドキ感があった。

──民営化の前年の84年、それまで在籍していた慶大から助手として東京工業大学に移ったとき、データを物理的に移動させるのが面倒で、慶大と東工大を電話回線経由で勝手にネットワーク化したというエピソードがあります。それが「JUNET」という大学間ネットワークに発展し、結果として“疑似インターネット”みたいなものをつくってしまいましたよね。

北海道大学には慶應の先輩でのちに塾長になった安西祐一郎さんがいて、九州大学には荒木啓二郎さんがいて、「北から南まで、つなぐぞ!」と言って協力してもらった。ところが、電話回線を使ったダイヤルアップ方式だから、かなり長距離の電話代がかかる。東工大と慶應、東大は、同一または隣接区域内は大学が負担してくれる仕組みがあったから気にしないで済むけれど、長距離だとそうはいかない。だから、あまり大声では言えない方法を使ってね……。

──要するにハックしたと(笑)

まぁ、タダで使える国立機関の電話回線というのがあって、それが最後の手段として使えることはわかっていたけれど、その手前でちょっとした実験をして、つながったわけ。NTTに嫌われていたかもしれないけど(笑)、当時のNTTのなかに数人は仲間がいたんですよ。

それで、NTTの通研[編註:当時の電気通信研究所の通称。現在はNTT武蔵野研究開発センタ]に頼んで、まず三鷹まで引くわけ。そこで中継して、通研から北大や九大にかけると、通研っていうのは研究機関だから「実験」という名目で電話代のチャージを気にしなくて済んだ。

次に国際回線。これが大変だった。当時のKDD[編註:国際電信電話。現在のKDDI]の研究所に、いまは東京大学名誉教授の浅見徹さんと、のちにJPNIC(日本ネットワークインフォメーションセンター)理事になった小西和憲さんのふたりがいて、一計を案じてくれた。それは、KDDの国際回線とJUNETを接続して、海外のインターネット網からメールやNetNews[編註:電子掲示板システムの一種]を引っ張るという実験で。最初は実験だから通信料金が発生しないように配慮してくれていたけれど、社内で問題になった。それで、実費を回収する「InetClub(国際科学技術通信網利用クラブ)」という会員制クラブをつくってくれて、事なきを得ました。

そういう通信会社にいる仲間に恵まれてね。でも一部の味方以外は、あとはもう郵政省も含めて嫌われていたと思う。だから、かなりスリルがありましたね。

商用インターネットの礎となった「WIDEプロジェクト」を村井が立ち上げてから、ちょうど30年。いまでも村井はインターネットの最前線を走り続けている。PHOTOGRAPH BY HIROMICHI MATONO

──その後、村井さんは東工大から東京大学大型計算機センターに移り、89年1月に日本で初めて電話回線ではなく専用線で、日本のネットワークを米国のネットワークと常時接続することに成功しました。日本に閉じていた“インターネット”が、海外に開かれた瞬間です。

そうそう。インターネットを本当に世界とつないだ。当時、データベースをもっている東京大学文献情報センターを学術情報センター[編註:現在の国立情報学研究所=NII]に改組して、そこを中心に全国の大学や研究機関をつなげてネットワーク化する「SINET」という国主導のプロジェクトが始まったばかりだった。そのときは東大にいたので、SINETとワシントンD.C.の米科学財団(NSF)をつなげて、NSFのオフィスから東大のデータベースを使うという夢の大プロジェクトをやったんです。

最初は、単にデータベースを使えるようにしようという話だった。でも、もうJUNETを通じて全国の大学で電子メールをやり取りしていたし、民間も巻き込んだ意欲的な商用インターネットの実験としてWIDEプロジェクトも立ち上げていた。せっかくなら、SINETもJUNETもWIDEもワシントンD.C.まで通るようにして、いつでも海の向こうと電子メールでやりとりできるようにしよう、となったわけ。

それで任せてくれって言って、慌てて「IP over X.25」っていうプロトコルをつくって、9.6kbpsの専用線をIPで使う段取りがついた。ところが、国の関係者のなかには心配する人が多くてね。われわれがつなげようとしているNSFのネットワークは、米国防総省のネットワークとつながってるだろうと。これ、許可とってるのかと。本当は国防総省のネットワークは使っていなくて、「ARPANET」という学術ネットなんだけど。

そのときワシントンD.C.のNSFのオフィスで作業していたんだけれど、そこにスティーヴ・ウルフっていう現場の責任者が来たので、「日本ではみんな信用してなくてさ。勝手につないでるとか、本当に米国の許可をとっているのかとか、イリーガルじゃないかとか、そういうことばっかり言われて心配されているんだよね」と言ったんだ。

そうしたら、スティーヴがその場で、「日本のインターネットコミュニティーと米国のインターネットが相互接続することはウェルカムだ」という公式のレターをすぐにつくって、サインしてくれて。「これで役に立てるか」と聞くから「おお、役に立つよ!」と。このレターはいまでも額に入れて飾ってありますよ、大切に。これが始まりですから。

──印籠みたいなものですね。

そう。向こうとしては、たいしたことを書いたつもりはないんだけれど、日本ではすごく有効に働いた。米国の役所と日本の役所の振る舞いは違うんだなっていうのも、いろいろ経験をしたうちのひとつの話だよね。

この歴史的な作業のために米国に向かった日、実は成田空港に着いたら「天皇陛下 崩御」という号外が配られていた。そのままワシントンD.C.に行って、日米のインターネットが初めて完全につながった。というわけで、平成そのものなんだよね、日本のインターネットの歴史というのは。

──その4年後の93年に、『WIRED』US版が創刊されました。この年は日本の商用インターネットの普及においても、エポックメイキングな年です。村井さんが中心となって、IPアドレスの割り当てや管理を行う任意団体としてJPNICを立ち上げ、一方で国内初の商用プロヴァイダーであるIIJの創業にも参画しました。

当時はいまと違って、株式会社をつくるのに1,000万円もかかったんだよね。それを集めるのも大変だったけれど、そもそも「特別二種」という電気通信事業者の登録ができない。われわれが無知だったからだけれど、その準備をしていたのが91年から93年にかけてだった。それにIIJを始めてもお客さんがいない状況でね。ようやくビジネスとして成立するようになったのは「Windows 95」が出た95年からだった。でも、苦労したというよりは、楽しかったという感覚のほうが強いですね。

村井は「日本のインターネットの父」と呼ばれることには抵抗があるのだという。それは自身がインターネットそのものをつくりあげた一員であるとの自負をもっているからだ。PHOTOGRAPH BY HIROMICHI MATONO

──WIDEプロジェクト開始から30年、商用化から25年。この間、いちばん苦労した、あるいは危機を感じたことは何でしたか?

冒頭でも少し話したけれど、やっぱり政府がかかわってくるときにはリスクがつきまとうよね。ドメイン名やIPアドレスの管理を世界規模で行う非営利団体のICANNが98年にできてから、日米以外の国がだんだんインターネットに目覚めて、BRICs諸国なんかが台頭してくると、彼らは政府の力を使ってアプローチをかけようとするんですね。

いちばん危ないなと思ったのは、2001年の「9.11」を機に、米政府がインターネットに関与するぞって言い始めちゃったこと。米政府から、「9.11のときに航空網を遮断したように、インターネット網を止めて米国をアイソレート(隔離)してもおまえらは生き延びられるか」みたいな質問をされました。心のなかでは「なに言ってんだ」って話ですが。これがやはり最大のリスクでね。関与しようとする政府から、守っていかないといけない。

地球温暖化みたいな課題と似たところもあるんだよね。なんとなく、自分がやらなくてもなんとかなるんじゃないかっていうふうに、みんなが思い始めている。けれども、汚しちゃダメとか、ちゃんと健全に発展させていかないと危ないよとか、そういうことをいつも考えていかなければならないし、やらなきゃいけない。

政府がコントロールしたいのは、インターネットの利用とか、分散されたストレージに入っているコンテンツの中身の話だよね。インターネットのプラットフォームの概念はそれとは分離された話であって、常にシステムとして健全に動いていなければならない。それを理解したうえで、政府が責任を果たしてくれるならウェルカムなんだけれどね。

──村井さんは今年、政府の「インターネット上の海賊版対策に関する検討会議」で座長を務めました。漫画の海賊版サイトなど特定サイトへの接続を遮断する「サイトブロッキング」を法制化するか否かで議論が紛糾しましたが、村井さんご自身の考えは?

サイトブロッキングを、たとえば児童ポルノ画像対策など、人権問題として世界中の理解があったうえで最後の手段として用いることはあっても、今回のような目的でやるのはありえない、ということを以前からはっきりと申し上げています。WIDEプロジェクトも「サイトブロッキングの導入・実施はインターネットの破壊への第一歩」という声明を出している。

インターネットのプラットフォームの仕組みでサイトを遮断するなんていうことをやり始めたら、ほかの経済や、ほかの国にも影響が出ちゃう。だからできませんっていうのが、わたしたちの立場です。

──30年かけて構築してきたインターネットの次なる30年は、いままで築いたものをいかに守るかという30年になるのでしょうか。

いやいや、そんなことはないでしょう。国際社会は政府がすべてだけれど、インターネットにおいて政府はステークホルダーのひとつでしかない。マルチステークホルダーの世界で、ユーザーもヴェンダーもプラットフォーマーも、みんながステークホルダーなんだよね。そういうインターネットが前提の地球の文明の上に生きているという認識を、すべての政府がもつことは、夢だとはぜんぜん思わない。楽観的ですね。

誰もがネットワークを介してつながるようになったいま、まだまだ達成できていないことが村井にはたくさんある。PHOTOGRAPH BY HIROMICHI MATONO

──それでは、WIDEプロジェクトにおける次なる30年のテーマやキーワードはなんでしょうか?

ひとつは分散処理でしょう。「WIDE」は「Widely Integrated Distributed Environment」の略で、もともと分散処理を研究するグループなんです。本当の意味での分散処理の実現までは長い道のりで、たとえばこのインタヴューを受けている部屋だけでも、PCやスマートフォン、CPUがいっぱいある。けれども、ぜんぜん使われていないよね。少なくともインターネットでつながった協調的な分散処理には使われていない。世界にはものすごい数のCPUの能力が余っているわけで、まだまだできることはある。

──なるほど。ひとりの研究者として、これからのテーマとして掲げておられるものがあれば、ぜひ教えてください。

これまでずっと教育をやっているから、教育も変えたいよね。インターネットをほとんど使っていない分野だから。それから、やっぱり医療。もう深刻だよね。だってさ、たとえばこの部屋にいる3人で医療システムをつくり直したとしても、少なくともいまよりも絶対にいいものができると思う。いろいろ難しいことがあって、変わろうとしないからね。

──いまだにカルテはスタンドアローンで、同じ患者でも病院間でカルテを共有したり、持ち運んだりできませんよね。

そうそう。たとえば、人間の健康にかかわる情報は個人情報だから、国を越えるのはダメだよって言っていたら、メディカルツーリズムみたいなものは成立しないんですよね。われわれがタイに行って病気を治療してくる、なんてことができなかったら困るんだから。外国人が日本に来て診療して戻ることも、できなきゃ困るよね。

つまり、メディカルケアは本来なら、国境を越えてサーヴィスできるものなんです。このことがわれわれの少子高齢化社会を変え、支えるんだと。いままでぜんぜんインターネットのことを使っていなかった医療の専門家が、そこに気がついてくれて、医療データの流通こそが大事なんだと言ってくれる日がくると願っています。そこは、全体が把握できているわれわれの使命だとも思うわけです。もちろん『WIRED』の使命でもあると思うけどね。

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村井純

インターネットの父、戦いの歴史。
“アンワイアード”な現在に思うこと。

AudiInnovation

06

電動化への攻勢

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「Audi e-tron」とともに始まる